ゆる文

ゆる~くアニメだとか、映画の感想文

アニメーション映画 コメディー/ドラマ『SING/シング ネクストステージ』「夢よ、どこまでも響け」

引用元:yahoo!映画-yahoo! JAPAN

 シリーズものは回を重ねるごとに評価が下がるのが常ですが、本作『シング ネクストステージ』は前作と同等、いやそれ以上の出来だと思いました。前作は倒産直前のニュー・ムーン・シアター再建を主軸に、劇場経営者のバスター・ムーンというコアラが、部活スポーツものでありそうな癖の強いアマチュアを集めるところから始まり、成り上がる過程が描かれましたが、本作は再建に成功し人気劇場になったニュー・ムーン・シアターの個性豊かな仲間たちとエンターテインメントの本場に挑戦する物語になっています(≧▽≦)

 

 物語を成立させるうえで必要不可欠な要素は成長なんですよね。起承転結で説明すると”起”で日常を描き、”承”で何かしら日常を脅かす非日常的なことが起こり”転””結”で事件の終焉と事の顛末を描くのが基礎です。

 

 そこで大切になるのは”起”の日常よりも登場人物の現状がよくなって(成長して)いればハッピーエンドに分類されて、”起”の日常よりも現状が悪くなっていればバッドエンドに分類される訳ですよ\(*'ω'*)

 

 で、前作の『シング』では不満や問題を抱えていた登場人物たちの願望がすべて叶い終わりました。願望を叶えて成長してしまった登場人物を更に成長させるのは難しいですよね(^▽^;) 

 

 だからシリーズものはシリーズを重ねるごとに蛇足感が強くなってしまうようにバニラは思います。ドラゴンボールで例えると、ピッコロ大魔王倒したらベジータが現れて、ベジータ倒したのに、フリーザがいて、フリーザ倒したら、セルが現れて、セル倒したら魔人ブウが、それでやっと終わったと思えばGT編ではベビー超17号で邪悪龍の一星龍ですよ( ̄▽ ̄)

 

 しかもドラゴンボール超になってからは、ビルスウイスだ、ゴールデンフリーザだ、ザマス、ジレンだ、全王だと更に強大な敵が現れて、悟空たちは成長し続けインフレの代名詞のような作品になっていますよね。

 

 ナメック星編でのフリーザ様がいった「私の戦闘力は53万です」で衝撃を受けていたら、フリーザ様最終形態では戦闘力一億ニ千万ですよ。「いや跳ね上がり過ぎやろ」思いましわ(^▽^;)

 

 しかもその後に登場する、人造人間の方がフリーザ様最終形態の戦闘力一億ニ千万よりより強いって(;^ω^) まあ、ドラゴンボールはそのインフレが面白い作品なんですけどね( ̄▽ ̄) 

 

 と、「まったく関係ない話しとるやん」と突っ込まれていると思うので話を戻しますが、つまりドラゴンボールまで行かずとも、物語の基礎は成長です。

 

 すでに幸福を掴んだバスターたちをどう成長させるのかが本作のテーマです。バスターたちはエンターテインメントの本場、現実世界でいうところのラスベガスのような都市で自分たちの力を試したいと思うんですね(*´▽`*)

 

 地方の小劇場では人気のあったバスターたちの舞台も、本場の洗練されたエンターテイナーたちの前では技術やセット、パフォーマンスすべてが劣っているのは明白でした(-_-;)

 

 大手エンタテイメント会社のクリスタル・エンタテイメントに、アポを取らずに乗り込んできたバスターたちはオーディションにすら出場することができません。そこでバスターたちは清掃員に変装してオーディション会場に乗り込むという荒業をやってのけます。

 

 そしてオーディションに侵入したバスターたちは見てしまいます。洗練されたエンターテイナーたちが次々落とされていくのに、こんなんバスターたちが受かるわけないやん、って感じなんですよね(´・ω・`) 

 

 クリスタル・エンタテイメント社長のジミー・クリスタルがオーディション参加者を次々ボタンで落としていくところが面白いんですよ( *´艸`) 可愛いヒヨコたちの歌に、猿と亀の脱出ショー、というより亀の爆発しても大丈夫な亀の甲羅の凄さを見せつけるショー的なやつだったり、ウサギとカバのダンスに、「聞いて」と歌い始めた途端に落とされる馬だったりね。

 

 いやせめて聞いてって歌詞に書いてるんだから、サビまでは聞いてあげてよ(^▽^;) と突っ込んでしまいましたよ。

 

 フラミンゴたちがローラーブレードで舞台を滑り回るダンスに、大きな目のメガネザルかな?の不思議なパフォーマンスにも魅入っていたのに、社長のジミーは落とすんですよ。いやあんた、魅入ってたやん(''ω'')ノ

 

 そんなレベルの高いオーディションにバスターたちのニュー・ムーン・シアターの仲間たちが受かるはずもなく、「これは平凡な女子高生の物語」とバスターがナレーションを入れた途端に、平凡な女子高生の話はいらんと落とされるんですよ。

 

 いや、前の高度なパフォーマンスを見た後ではニュー・ムーン・シアターが受かるはずないと予想していましたよ。だけどこの狼は本当に採用する気あるんか?疑いたくなります(^▽^;)

 

 終わったと思ったそのとき、ダンサーの豚グンタークレイ・キャロウェイという隠居した伝説的ロックスターの名前を出したことでジミーは食いついてくるんですね。そこでバスターはグンターがとっさに思いついた、SF舞台の構想を話すのです。

 

 タイトルはその名も「この世界のかなたへ」です。初めはそんな荒唐無稽でB級SF映画のような話しで大丈夫か……と思いましたが、プロの手にかかると磨けば光るもので感動のエンタテイメントに仕上がっていました。

 

 で、話は戻りますが、バスターはクレイと知り合いで頼めばそのSFショーに出てくれるかもしれないというような嘘をついてオーディションに受かるのです(^▽^;) そこから右往左往数々の問題が立ちはだかるのですが、最後の完成した舞台は前作以上にエンタテイメントの粋を集めたような感じで圧巻でした。

 

 中でも、社長の娘であるポーシャの場面と、ゴリラのジョニーのダンスシーンは特に盛り上がるムネアツシーンです(≧▽≦) 対立していた師匠が急遽ショーに乱入してきて最終決戦になったり、始めは宇宙飛行士をすることになっていたポーシャがクビになってその後、緑の宇宙怪獣になって歌う場面は鳥肌です。

 

 初め社長令嬢にありがちなわがままで嫌味なキャラだとポーシャのことを思っていたんですが、全然そんなことなくて純粋なキャラだったのが良かったです。評価は割れるかもしれませんが、バニラは前作を上回る出来のアメリカの夢と希望が詰まったミュージカル映画作品だと思いました('◇')ゞ

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アニメ ドラマ/日常『彼女と彼女の猫 -Everything Flows-』「夏の、一番暑い日」

引用元:映画.com

『君の名は』以降、人気監督となった新海誠監督の処女作を新たに映像化した『彼女と彼女の猫 ‐Everything Flows‐』 猫視点の詩的なナレーションで、猫と彼女の日常を心理を丁寧に描写するというのは夏目漱石の『吾輩は猫である』に共通するところがあります。

 

 今触れた通り、本作は新海誠監督の『彼女と彼女の猫』を新たにリメイクした作品らしく、旧作とはストーリーがちょっと違っているようですね。旧作を観たことがないので何とも言えませんが、本作は旧作の前日譚のような作品のようです(。-`ω-)

 

 前作に登場した新海誠監督が声優を勤める猫が最後登場するので間違いありません。 ストーリーは猫と彼女と彼女の母親との、等身大の関係が主軸に描かれています。

 

 彼女の母が再婚することになり、彼女は自分がいたら再婚相手の男性と上手くいかないと母のためを想い、家を出ることを決めるのですが、そんな彼女の思い遣りは空回りして、母は結婚反対の当てつけだと勘違いしてしまいます(´-ω-`)

 

 相手のためを想ってしたことが空回りするってよくありますよね……。喧嘩しているわけではありませんが、お互いがお互いを思い遣るがためにこじれてしまった母との関係を修復できぬまま、彼女は友人とシェアハウスすることを条件に猫と一緒に家を出ることになりました。

 

 ですが数年後、シェアハウスしていた友人が彼氏と暮らすことになりシェアハウスから出て行ってしまい、彼女と猫の二人だけの生活がはじまるところから物語がはじまります。

 

 彼女は就職活動中で企業の面接を何社も受けているようですがどれも上手くいっていないようで、精神的に追い詰められ……とうとう彼女は鬱のようになってしまうんですね(´・ω・`)

 

 猫は知ってか知らずか機転を利かせて固定電話の短縮ダイヤルを押し、母に電話をかけ、様子がおかしいことを心配した母は娘の暮らすアパートまで飛んでいくと、元気のなくなった娘が顔を出すのです(;´・ω・)

 

 猫のいたずらがきっかけですれ違っていた母娘の仲は修復を果たしたのですが、最後の仕事を終えたとばかりに、その後猫は寿命で亡くなってしまいます(T_T) 時は流れ、一年後就職が決まった彼女は河川敷の高架下で、新海誠監督が声優を演じる新たな猫を拾うところで物語は終わります――。

 

 30分ほどの短編アニメですが、作画、演出、ストーリー構成、音楽どれをとっても完成度は高いと思います。新海誠監督お得意の風景描写や10代~20代のジュブナイルの繊細な心理描写も綺麗で、作中に漂うノスタルジックな雰囲気と、静かな時間の流れはまるで遠い昔を思い出すときのような気持ちにさせられます(*´▽`*)

 

 ストーリーはよくある話なのですが、文章でも絵でも説明できない「何とも言えない」感情を与えることが物語の真価だと思います。物語の真価がそのような気持ちを伝えることなら、30分ほどの短い時間ですが、本作は視聴後は押し付けがましくない爽やかな余韻を与えることに成功しているでしょう('◇')ゞ

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アニメ SF/ミステリー『バビロン』「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」

引用元:アニメハック・映画.com

 ※今回は過激な内容です。精神が不安定な人、あるいはグロテスクな内容や表現が苦手な人はお気を付けください<(_ _)> いい意味でも、悪い意味でもこれほどまでに賛否が分かれる作品をバニラはたぶん見たことがありません(;^ω^)

 

 レビュー数が多く、賛否が極端にわかれる作品は一見の価値があるとバニラは思っていますので観てみました。で、視聴した結果、善と悪、自殺などを扱った哲学的作品なので賛否がわかれる理由がわかりました(^▽^;)

 

 物語は東京の町田市・八王子市・多摩市と神奈川県から相模原市越境合併した新たな行政区、新域の構想が進んでいたある日、東京地検特捜部の正崎善(せいざき ぜん)はある事件で押収した捜査資料の中から、Fばかりが羅列された不気味な怪文書を部下の文緒厚彦(ふみお あつひこ)と共に発見します。

 

 その怪文書を書いた因幡(いなば)大学病院の准教授は謎の自殺をしており、捜査を進めると政治家との関与が判明します。政治家らの身辺調査を進める中で曲世愛(まがせ あい)という女性の存在を浮かび上がり、その直後、部下である文緒までが謎の自殺をしてしまいます……(´・ω・`)

 

 文緒に自殺する理由なんてないし、何者かに殺されたのだと思うのは当然の推論です。そんな謎の自殺事件の捜査が難航していると新たな事件が発生してしまいのです。新域から集団自殺をした人々のニュース正崎の元に飛び込んでくるんですね……(>_<)

 

 その集団自殺を引き起こしたのは曲世愛だと知り、正崎は曲世愛の過去を調べると、曲世愛には人を死に追いやったり、操る不思議な能力や、雰囲気を変えることで別人のようになれる能力があることを知ります。

 

 伊坂幸太郎さんの『グラスホッパ-』という小説に、という自殺専門の殺し屋が登場するのですが、鯨が命令すると対象者は何故か自殺をしてしまうという不思議な能力を持っていたのを思い出しました。曲世愛は鯨の上位互換的存在だと考えられます( ̄▽ ̄)

 

 と、この時点で本格ミステリー・サスペンスを期待して観ていた人は混乱してしまい賛否が分かれるようです(^▽^;) 異能の力が登場する『デスノート』のようなサスペンスだと考えてください。

 

 もし世界的名探偵であるLが存在していなかったら『デスノート』のような対象者の顔を知った状態で、名前を書けば死に追いやれる能力があったら完全犯罪達成ですよね(;^ω^)

 

 そこから今までのミステリー・サスペンスから一転して、曲世愛が裏で糸を引きながら自殺法という法律の制定を巡って世界中が議論を戦わせる展開になっていくんですね( ̄▽ ̄)

 

 つまり、この作品はLの存在しない『デスノート』であり、SF作品なんだと思います。どうしてSFなのか? 不思議に思われた方もいるでえしょう。本来SFとは、宇宙や未来の話にだけ与えられるジャンルではなく、もしもの世界を思考実験した作品にも与えられるジャンルだからです。

 

 例えば「もしも、○○の世界になったら!」というドラえもんのような作品はS(少し)F(不思議)な話ですよね! というのはちょっとした冗談で、ディストピアユートピアの世界を描いた作品もSFにジャンル分けされるように、この『バビロン』は自殺法という法律が世界にどのような影響を与えるかを思考実験するSFであると思います( ̄▽ ̄)

 

 自殺法を可決すべきか? 否決すべきか? そのためには自殺は善悪どちらなのかという問題を議論しなければならないのです。哲学とは不変で絶対の真理を探究する学問ですから、善悪にも絶対に否定できない善、絶対に否定できない悪を考える必要があります。

 

 その後、話は大きく変わり、新域の市長に立候補した若手議員、斎開化(いつき かいか)が人の自殺を認める「自殺法」の是非を高らかに宣言します。ここから自殺法は賛成か?反対か? 

 

 新域の市民や政治家たちに何度も問いかけて来ます(´-ω-`)「善とは何か?」「悪とは何か?」「自殺は悪いことか?」と(´・ω・`) 「そんなもん悪いに決まってるだろ!」と感情論で片付けてしまうのは安易です。

 

 最終的に各国の首相たちがサミットを開き、トロッコ問題や臓器くじの問題などを持ち出して、「どうして自殺はいけないのか?」を議論することになるんですね。ある政治家は社会経済的に自殺によって失われるGDP損失の額を挙げて否定していました。

 

 ネットの情報ですが日本では毎年平均して2万人以上の人が自殺によって命を落としているらしいです……。自殺は減っているとか言っているメディアもありますが、その代わり変死体が増えているらしいですね。不思議ですね~( ̄▽ ̄)

 

 つまり自殺と断定できる確証や物的証拠がない限りは、変死体、不審死、行方不明として処理されているわけです……(´-ω-`) そして、世界全体で見ると平均80万人が自殺で命を落としています。40秒に一人が自殺によって命を落としている計算になるそうですね(´-ω-`)

 

 今この記事を書いているときにも、読んでいるときにも世界のどこかで誰かが自殺で死んでいる。アドルフ・アイヒマンは「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」と言いました。

 

 毎年日本だけでも2~3万人、世界平均80万人が自殺で死んでいるのに、そのことを見てみぬふりをして、自殺を感情論的に否定してしまうのはいかなものか? 否定するということは自殺で亡くなった人の苦しみを否定するということなのですから。

 

 つまり、自殺が悪なのはGDPやリソースの損失になるからという否定意見も、もっともではあるのでしょうけど、バニラはこの市場原理、資本主義的な自殺の否定があまり好きではないんですよね(-_-;) 

 

 実際に資本主義社会において、人間の命、臓器、愛すら金で買えないものはなく、否定できませんが、この否定方法は利益によって人の命が左右されているし、結局市場原理による自殺の否定は社会にとっての悪であって、自殺する本人にとっての悪にはならないと思います(´-ω-`)

 

 斎は社会経済的観点からの否定意見に対し、「自殺法が施行されても、自殺者が急激に増えるとは限らない。現行の社会では、ある種の暴走として自殺を計ってしまったわけだが、自殺法の運用後は暴走ではなく、選択として死を選べるようになる。そうなれば、不慮の自殺が減少する可能性は十分ありえる」と反論します。

 

 否定派は「詭弁だ!」といいますが、斎の意見も十分説得力があるんですよね……(´-ω-`) もし自殺法が施行された社会で、自殺を考えている人が、行政に相談するとします。

 

 そうなると行政だって、何らかの対応はするでしょうし、そうなれば、自殺を考えていた人を救うこともできるかも知れない。自殺をしてしまう人の中には、誰にも相談できなくて溜め込んでしまう人も多いので、そのような相談できる窓口増えても自殺をすべて止めることはできないでしょうけど……。

 

 別の政治家は道徳的観点から自殺を否定していました。自殺が許容された社会では、人が突然いなくなってしまうかも知れないから、人と人の信頼関係が築き上げたものがすべて崩れ去ってしまう、と。

 

 そのような意見に斎は「道徳とは時代によって変わるものだ」といいます。「古い時代に不道徳とされた同性愛は、現代では各所で認められている。逆に男女の性差別はかつて問題にされなかったが、今では問題にされている」と。

 

 自殺を性差別と一緒にするなと、と反論しますが、確かに道徳は時代と共に変わっているのも確かです。盗みや殺人などいつの時代も普遍的な不道徳があると反論すると、斎は「では、自殺はどちらなのでしょうか?」と返してくるんですね。

 

 そう言われると答えられる人なんているでしょうか? よっぽどでない限り深く考えない問題で、答えられる人は少ないでしょう。「自殺法は人を自殺に向き合わせ、そのとき市民は初めて自殺について真剣に議論します」と斎はたたみ掛けます(´-ω-`)

 

 男女の性差別の問題しかり、人間は問題にされて初めて考えるものなのです。最後の意見は「人は死に対して冷静になれない。人は感情に左右され、時に過ちを犯す生き物で、自殺すれば取り返しが付かない。だから自殺法は感情のある人間には扱い切れない」という自殺は関わった多くの人を不幸にするという感情論的否定意見です。

 

 そして斎の反論は、「自殺法とは、誤って自殺しないための法律」なのだと言います。バニラは中立の立場で否定も肯定もしませんが、このようにサスペンスではなく哲学的作品になっているので賛否が分かれる理由がわかりました( ̄▽ ̄) 

 

 つまり、作者の野崎まどさんはこの『バビロン』を書くことで、真理を探究しているのです。だけど、真理のしっぽがつかめそうで、つかめない……。最後野崎さんは自殺を悪だとする普遍的真理に「終わること」という結論に辿り着きました。

 

「生命が続くことは『善』」であり「終わることは『悪』」なのだと。確かに一瞬バニラも納得しましたが、少し考えると人間の種として「終わることは『悪』」でも、個人の問題を考えると悪になりえないと思います。

 

『サピエンス全史』でハラリ氏は「農業革命は史上最大の詐欺だった」と逆転の発想を展開されていました。人類は農業革命によって農作を始めたからってすぐには豊かになったのではないんですね( ̄▽ ̄)

 

 それどころか狩猟採集時代の方が食生活は豊かで幸福度は意外に高かったのではないいか?というデータもあります。現代人の感覚からしたら、狩猟採集時代より現代の方が食生活は豊かになり、幸福になっているのは明白ですが、現代にいたるまでには干ばつや、自然災害など様々な原因で作物を安定的に得られず、土地を求めての戦争が続き暗黒の時代が何十世紀も続いていたことを考えると納得ですよね(^▽^;)

 

 なのにどうして人類は農業を辞めなかったのか? それは周囲の人々が農耕を始めムラやクニを造るようになったら、狩猟採集民の少数グループでは対抗できなかったから、いやいやでも農耕によってムラを形成して対抗するしかなかったからだとされています。

 

 つまり、種を増やす(続く)というのがDNAの本懐であって、個の幸福は考えられていなかったのです。それと同じで自殺には人間個としての善悪、種全体としての善悪のどちらを選ぶかで変わる相対主義的なところが大きいと思います。

 

 とまあ、とんでもなく長くなりましたが、ちょっとした表現でもバッシングされる厳しい時代に、よくこんな自殺を扱った過激な内容の作品を映像化してくれたと、企画者や製作者さんたちの勇気はどうあろうと称賛すべきだと思います( ̄▽ ̄) 

 

 賛否は分かれるでしょうけど、スリルがあって、考えさせられる作品なので、バニラは楽しめました('◇')ゞ

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アニメ ファンタジー『剣風伝奇 ベルセルク 』「この世界には人の運命をつかさどる何らかの超越的な「律」神の手が存在するのだろうか」

引用元:dアニメストア

 幼いころアニマックスというCSの番組で、この『ベルセルク』が放送していたのを少しだけ見たことがあります。でも、覇王の卵(ベヘリット)が血の涙を流す描写を見たとき以来トラウマになって、ずっと避けてきました(´・ω・`)

 

 子供には怖いですよあれ(^▽^;) そんな『ベルセルク』ですが、今、黄金時代編のリメイクがしているので、この機会に旧作『剣風伝奇 ベルセルク』を観てみました(´▽`)  今ならベルセルクが傑作と呼ばれる理由を少しは理解できるようになったと思います。

 

 今のリメイク版と観比べていますが『ベルセルク 黄金時代編』は戦争描写や戦闘描写がより情報量が多くなった印象ですね。CGを使えるようになったことで画面に占める兵士たちの人数が多くなり、より高度な戦争描写を可能にしています。

 

 なにより映像が綺麗になりまいしたね( ̄▽ ̄) だけど、綺麗になったことで失われてしまったものもあるのは事実(´・ω・`) 近年のデジタル作品も綺麗でいいですが、やっぱりセル画時代の作品は迫力が違うと『剣風伝奇 ベルセルク』を観て思いました。

 

 デジタルでは泥臭さと荒削り感は出せませんよね(´・ω・`) だけど近年のアニメが軽いだとか、ダメだなんだと批判しているわけではありません。今は今の良さがありますからね(´▽`*)

 

 では、ストーリーを大雑把に説明すると、主人公のガッツは身の丈ほどもあるクレイモア(大剣)を振り回す傭兵です。ガッツは傭兵に雇われ、ある国を落とすことに成功した帰り、『ベルサイユのばら』に登場しそうな男装の美男子グリフィス率いる鷹の団に襲われます。

 

 ガッツは抗戦しますが鷹の団に捕らえられ、グリフィスから「おまえが欲しいんだ」と告白されます(n*´ω`*n) 勘違いされそうですが、BLではないですよ(たぶん(´・ω・`))。

 

 ですがガッツはグリフィスの告白を振ってしまうんですね(´・ω・) なら力づくで手に入れるまでだ! ということになって、決闘してグリフィスが勝利を納めガッツはグリフィスのものになるのです。

 

 それから数年が経ち、ガッツたち鷹の団は武功を上げ、とうとう王国直属の騎士団になるまで出世します。グリフィスは単身どんどん出世し、とうとう王から爵位まで与えられ、自分の国を造るというグリフィスの夢まであと少しのところまでいったとき悲劇が始まります……( ;∀;)

 

 ガッツはある日、王女とグリフィスの「私にとって友とは、そんな”対等”な者だと思っています」という話を聞いてしまうんですね……。その言葉を聞いてガッツはショックを受けます。

 

 ガッツはグリフィスの背中に付いて行くだけではグリフィスが友と呼ぶ対等な関係になれないと思ったのか、鷹の団を抜けて自分の夢を追い求めグリフィスと対等な存在になろうと考えるのでした。

 

 ガッツが鷹の団を抜けてしまい、そのことでガッツに特別な感情を抱いていた(BLではない、たぶん(-_-;))と思われるグリフィスは暴走し、その国の王女に手を出し、そのことが原因で監禁されることになるのです(´・ω・`)

 

 鷹の団は国を追われ、グリフィスは地下室で長い間拷問を受けることに……。そのことを知ったガッツはグリフィス奪還作戦に加わり、なんだかんだガッツの活躍もありグリフィス奪還に成功しますが、グリフィスは度重なる拷問によって全身の腱と舌を切られ立つことすらままならなくなっていたのです(T_T) 

 

 グリフィスの瘦せ衰えボロボロになった姿は観ていられません……。いったい何がいけなかったのか? どこで間違えてしまったのか? 身の丈以上の夢を持つのはいけないことなのか……?

 

 平民出身のグリフィスは幼い頃に抱いてしまった「自分の国を持ちたい」という大きな夢と陥ってしまった現状に自殺を考えますがそのとき、拷問の際に失ってしまった覇王の卵(ベヘリット)と呼ばれる真紅卵が再びグリフィスの前に現れたのです。

 

 この覇王の卵は使徒であるゴッドハンドに転生することができるアイテムであることが判明します。グリフィスはボロボロになった体でベヘリットを掲げると、背後で日食が起き始めるんですね。

 

 この場面は芸術の域に達していてもはや神聖な雰囲気すら帯びています(≧▽≦) 繁栄からの没落が丁寧に描かれているので、観ている者に善や悪では割り切れない相反するアンビバレントな感情を起こさせるんですね(。-`ω-)

 

 蝕までの構成が巧いな~と感動しました。そして始まる蝕によりグリフィスは家族のように共に歩んできた鷹の団の人々をゴッドハンドに転生する生贄として「捧げる」のです……(´-ω-`) 

 

 ここまでファンタジーというよりと歴史・戦記物の印象が強かったのに、最終回での人知を超越した怪物が現れるクトゥルフ神話的ダークファンタジーになるんですね~(^▽^;)

 

 こう考えてみてくださいよ。漫画『キングダム』のような歴史・戦記物に突如魑魅魍魎の怪物が現れて、後の始皇帝エイセイが天下を統一するために仲間たちを蝕の生贄に捧げたらどう思います(。´・ω・)?

 

 確かに『キングダム』も人間やめてるレベルの怪物たちが登場するので、ある日突然怪物や妖怪変化が現れてもおかしくないですよね~(*´▽`*)

 

 この『ベルセルク』の黄金時代編はまさにそんな感じなんです。黄金時代編以降、作品が変わったんか? と思うほどダークファンタジー色が強くなって、一粒で二度おいしいってこのことですね( ̄▽ ̄) 

 

 キャラクターたちの心理描写や人間の業のようなものは文章では説明し尽くせません(´・ω・`) 作者の三浦健太郎さんはお亡くなりになりましたが、三浦さんの弟子たちと友人の森恒二さんの手により再び物語は紡がれることになったらしいです。作者が亡くなっても描かれる『ベルセルク』の凄さをやっと実感しました('◇')ゞ

アニメ ファンタジー 『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』「アニメに国境はない(≧▽≦)」

引用元:BS11

 中国アニメは年々凄いことになっていますが、日本と肩を並べるどころか追い越されてしまいそうです(゚Д゚;) 中国は日本の優秀なアニメーターを引き抜いて、アニメーター育成に巨額の資金を投じているようですから成長は止まりませんね(;^ω^) 恐ろしい子Σ(゚д゚lll)

 

 アジアンコンプレックスのせいかなんか知りませんが、中国○○と付くだけで嫌悪感を抱く人も中にはいると思いますが、先入観なしに中国アニメだと知らずに観れば、もっと評価が高くなるでしょうね(´▽`)

 

 それくらい作画から何からレベルが高いのです。まずこの作品を語るにあたってアニメの歴史を少し頭に入れていただきたいと思います。世界最古のアニメはフランスの発明家エミール・レイノーがパリ万博で『哀れなピエロ』上映したのが最初らしいです。

 

 それを記念して『哀れなピエロ』を上映した10月28日が世界共通のアニメの日だとされているのだとか。バニラも本記事を書くまで知りませんでしたが、世界最古のアニメはウォルト・ディズニーが作ったんじゃなかったんですね( ̄▽ ̄)

 

 バニラはてっきりディズニーが発明したものだと思っていました。エミール・レイノーが発明したアニメーションの技術に目を付けディズニーがミッキーマウスを始め多くのキャラクターを生み出し動かしたわけです。

 

 ディズニーから多大な影響を受け日本を代表する万能の天才にして漫画の神様と評される手塚治虫虫プロを設立し『鉄腕アトム』を始め多くの手塚作品をアニメにしました。

 

 よく知られた話ですが手塚治虫さんはディズニーの系譜を汲んでいるわけですね( ̄▽ ̄) 手塚治虫さんの絵は手足が大きくて丸みを帯びたシルエットをしてるでしょ(*´▽`*) あれはディズニーの系譜を汲んでいるからなんです。

 

 そしてディズニーの系譜を汲んでいる手塚治虫さんの系譜を汲む人々がトキワ荘に集まった藤子A藤子Fのお二人や、赤塚不二夫石ノ森章太郎など日本を代表する漫画家たちですね。

 

 藤子A・Fのお二人から赤塚さんや石ノ森さんも手塚さんと同じようにキャラクター性の強いディズニーっぽい漫画絵ですよね。彼らの漫画が日本のアニメ業界を牽引してきたわけですが、今現在の日本のアニメはディズニー調の絵柄とは違い劇画調の頭身の高い絵ですよね(^▽^;)

 

 それもそのはず、現代の絵柄は水木しげるの系譜を汲んだアニメだからです(*´▽`*) そうです『ゲゲゲの鬼太郎』です。手塚治虫さんはディズニーのようにデフォルメされた漫画調の絵で漫画界を牽引してきたとすれば、水木さんはよりリアル寄りの劇画調の絵で漫画界を牽引してきました。

 

 水木さんは劇画の第一人者として知られる辰巳ヨシヒロさんやつげ義春、『カムイ伝』で知られる白土三平さん、『ゴルゴ13』のさいとう・たかをさんとも深い関係があったそうです。

 

 つまりと藤子A・F、赤塚、石ノ森さんをはじめとするトキワ荘と水木、辰巳、つげ、白土、さいとうさんをはじめとする水木荘の光と闇の戦が水面下で繰り広げられていたのです(≧▽≦) 

 

 ソース元は山田玲司さんが↓の動画で詳しく分析してくれているので興味があったらそちらを視聴ください('◇')ゞ 

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 と、いうわけで昔はデフォルメされた漫画調の絵が主流でしたが、現代の劇画調の絵が主流になっています。前説が長くなりましたが、この予備知識を踏まえたうえで『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』の感想を語ろうと思います( ̄▽ ̄)(前置きが長げ~よ(''ω'')ノ)

 

 現在、アニメには手塚・水木を祖とする日本アニメーションと、ディズニーを祖とするアメリカのディズニー・カートゥーン・CGアニメに分類できます。この『羅小黒戦記』は日本系譜とアメリカ系譜のいいとこどりをしたハイブリッドアニメなんですよ(≧▽≦)

 

 日本が作り出した二次元調のキャラ・作画とアメリカのカートゥーン調の動きが合わさっています。カートゥーンと日本アニメを合わせることで日本アニメではできなかった新たな表現方法が可能になっています(´▽`*)

 

 日本の劇画調の絵は人体構造機能学が可能と認めた人体が可能とするリアルな動きしか表現できませんでした。そうなれば表現の幅は縮まります。で、日本の漫画家は人体構造をどうやって克服し自由な表現をしようか思考を凝らしてきた歴史があるわけですよ(知らんけど(´・ω・))。

 

 そこで編み出したのがちびキャラ化などのデフォルメ表現です。漫画などでギャグコマになるとデフォルメの強いキャラクターになるでしょ。あれです。

 

 もしそのようなデフォルメを使わずに人体構造を無視した動きを表現すれば、ゴムゴムの実でも食べていないと無理ですね(´▽`) ゴムゴムの実を食べていないキャラで腕や足を変な方向に動かしてしまえば「作画崩壊だ(# ゚Д゚)!」「ガーガーギャーギャ(≧◇≦)」なんだかんだ言われてしまうでしょう。

 

 が、本作はカートゥーンと日本調の絵のいいとこどりしたことでキャラクターの魅力を損なわず、人体構造を無視したより自由な動きを可能になっています! と、作画、カット割り、キャラクターは申し分ないできになっているのですが……。

 

 ストーリーは説明不足感を否めません(´-ω-`) もとは一時間半ちょっとの映画だったらしく、一時間半に多くの登場人物を出し過ぎてしまってキャラクターたちが活かされていない印象なんですよね(^▽^;)

 

 本作の主人公黒猫の妖精であるシャオヘイフーシーという妖精に助けられて居場所を見つけるのですが、そこに人間であるムゲンと呼ばれる最強の執行人が現れて、シャオヘイをさらっていきます。

 

 ここまでの流れが唐突でどうしてムゲンがシャオヘイをさらったのか? ムゲンの使う謎の技は何なのか? そもそも執行人って何? それらの説明がされないので視聴者は置いてけぼりをくらいます。

 

 まあ、それは日本アニメでもよくある構成で伏線として後半に回収されるので問題ありませんが、問題は登場人物なんですよね(;^ω^) ムゲンはシャオヘイを色々な人物と会わせるのですが、明らかに強キャラ感・物語の重要なキャラクターぽい雰囲気を放っているのに、活躍の場を与えられないキャラがほとんどです。

 

 最後の戦のとき、シャオヘイとムゲンが別れる場面でも視聴者が感情移入するほどキャラクターを掘り下げられておらず、登場人物と視聴者との心理的距離感を感じてしまいます(´-ω-`)

 

 せめて1クールの長さがあればストーリーやキャラの深堀もできて良かったのですが、ドラゴンボールでいったら、地球に襲来したラディッツを倒したくらいのところで終わった感があるので、登場人物の多さからしても、原作漫画があるらしいので、もしかするとシリーズ化して続編を制作するつもりでいるのかもしれません(。´・ω・)?

 

 

 これから中国はディズニー・カートゥーンアメリカアニメとも、日本の萌え絵や二次元的アニメとも違った中国独自の文化を活かした中国アニメを作っていくと思います。

 

 これからはアメリカはアメリカ、日本は日本、中国は中国とそれぞれの文化を継承したアニメを楽しめる時代になることでしょうね。アニメに国境はない(≧▽≦)

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アニメーション映画 SF/ドラマ『イブの時間 劇場版』「アンドロイドは○○の夢を見るか?」

引用元:dアニメストア

未来、たぶん日本――ロボットが実用化されて久しく、アンドロイド(人間型ロボット)が実用化されて間もない時代――。

イブの時間 劇場版:引用

 

 アンドロイドが集うイブの時間という喫茶店で人とアンドロイド・ロボットの交流を描いた作品です(^ω^) ロボットやアンドロイドの自我問題を扱った作品はSFの王道ですでに書き尽くされた感がありますが、バニラは好きですね~(●´ω`●)

 

 本当にアンドロイド・ロボットは自我を持つようになるのか? 現在でもロボット工学・AIの研究は盛んに行われていますが、まだ人間とロボット・アンドロイドの区別もつきますし、人間のように動けたり考えたりはできませんが、この『イブの時間』のアンドロイドたちは人間と区別できないほど精巧に作られていて、意思もどうやら持っているようなのですΣ(・□・;)

 

 いったい何百年先の未来の日本かは知りませんが、とんでもない技術力ですよね(;^ω^) 人間とアンドロイドの間には不気味の谷現象といって、人工物がある一定のラインまで人間に似てくると、急激に違和感を感じる現象が起こるそうです。

 

 2次元のCGとかなら作品の雰囲気や世界観を統一することで違和感なく観られますが、3次元に落とし込もうとするとやはり、目に魂が宿っていないというか、どこか違和感を感じる人も多いはず(。´・ω・)?

 

 イブの時間ではそれらの現象を克服し人間かアンドロイドか見分けが付かないほどになっており、さらにアンドロイド・ロボットに意識まで宿らせることに成功しているのですΣ(゚Д゚) 

 

 バニラはロボット・アンドロイド、いわゆるAIが意思を持つ可能性はゼロとは言わないまでも、限りなくゼロに等しいと思っているのですが、興味深いテーマですよね。だから好きなのですが( ̄▽ ̄)

 

 どうしてAIが意思を持たないと言えるのか? 何かで読んだのか観たのかで詳しくは憶えていませんが、AIはアルゴリズムによって動いていて、膨大なデータの中からキーワードをそれらしく組み合わせて出しているだけなんですってね。

 

  だから、人間のような意思をもって答えを算出しているのではなく、問題を理解しないまま膨大なキーワードをもとにそれらしい答えを算出しているらしいのです。まあ、それだけを根拠にAIに意識は宿らないと決めつける方が軽易だとも思いますけどね(^▽^;)

 

 人間だってアルゴリズムや電気信号で動いている機械のようなものですし、もしかすると我々が気づかないだけで本当に意思を持っているのかもしれませんが、なんせ他我問題ですから推し量ることは困難を極めます(^▽^;)

 

 まあ、そんなアンドロイドが意思を持つだの、持たないだのという話はそれくらいにして、アンドロイドが意思を持っているのだと仮定して話を進めましょう('ω')ノ もし、アンドロイド・ロボットが意思を持つのなら、まずアンドロイドやロボットの人権を保障しなければいけません。

 

 でなければ、アンドロイドやロボットが人間に反旗を翻すなんて某有名作品のような世界になってしまいますよ(^▽^;) アンドロイドやロボットに人権を認めたら、企業はこまるでしょう。

 

 なぜなら24時間フル稼働させて働かせることだってあるのですから。現代社会なんてコンピューター・ロボット・アンドロイドにとってはブラック過ぎるでしょう(;´Д`) なのにアンドロイドたちの人権を主張して抗議運動が起きないのが不思議です(。´・ω・)? 

 

 つまりそれだけアンドロイド・ロボットに対して人権意識が低い証拠ですよね(・ω・) 当然です誰もロボット・アンドロイドに意識があると思っていないのだから。ですがどうしてロボット・アンドロイドに意識がないと決めつけているのか!

 

 はい、堂々巡りなので辞めましょう(-ω-)/ まあ、そんなわけで、アンドロイドたちに意思があり、人間と見分けが付かないなら恋愛感情だって抱く人も現れるでしょう。実際『イブの時間』の世界では、アンドロイドと人間の恋愛や結婚が浸透しつつあるそうです。

 

 マスコミなどはそのような人たちをドリ系(アンドロイド精神依存症)と評して、社会的に抑え込もうとしているようですが、もうすでに一度普及した技術を抑え込むことはできず、アンドロイドとの距離は近くなるばかりです。

 

 LGBTQの人たちがお互いが愛し合っていれば結婚してもいいように、アンドロイドとの結婚もあっていいんじゃないってバニラは思います(●´ω`●) 寛容になりましょうよ。あ、だけど、もしアンドロイドとの恋愛が浸透した時代になったら、色々大変な生身の人間との恋愛を捨ててしまうという問題も起きかねませんね(-_-;)

 

 そうなればどこかの政治家さんたちがいうように生産性がなくなり、更に少子高齢が進み次第に人口は更に減ってしまうでしょう。でも大丈夫、イブの時間の世界ではロボット・アンドロイドたちが自我を持っているので人間の意思を引き継ぎ、絶滅した人類の代わりに自己複製を繰り返しアンドロイドとロボットの新たな世界が築かれて行くことでしょう( ̄▽ ̄)

 

 あれ(・ω・) アンドロイド・ロボットに平和的に征服されてね(。´・ω・)? とまあ、今まで色々なアンドロイドSF系の作品を観てきましたが、この作品ほどアンドロイドが日常に溶け込み、人間との共存をリアルに描いた作品は観たことないと思います。

 

 今までにあったアンドロイド系のSFはアンドロイドと人間が争ったり、上下関係があったり、アンドロイドとは、人間とはと問いかけて来る作品が多い印象ですが、この作品はそれとは違う不思議な雰囲気がありました(`・ω・´)ゞ

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映画 ドラマ/歴史 『奇跡の丘』「始めに言葉ありき」

引用元:Filmarks

 世界で最も知られた宗教と言えば? シンキングタイ~ム(*'ω'*) チクタク・・・チクタク・・・チクタク・・・。はい、そうです『人間至上主義教』です(≧▽≦) じょ、冗談です(^▽^;)

 

キリスト教』ですね、はい(*´▽`*) この『奇跡の丘』という映画は、キリスト教の開祖、イエス・キリストの伝記映画です。開祖といってもイエスは生涯ユダヤ教徒であり、キリスト教を作ったのはイエスを救世主と考えた弟子たちです。

 

 だから旧約聖書聖典としているユダヤ教ではイエスを救世主とするキリスト教はみとめていないんですよね。新約聖書旧約聖書というのはキリスト教が作り出したもので、ユダヤ教からしたら新旧関係なく聖典は聖書オンリーワンです( ̄▽ ̄)

 

 で、本作はユダヤ教からしたら異端であるマタイによる福音書をベースにして、無神論者として知られるパゾリーニという監督が忠実に映像化したらしく、この映画には神々しい演出はほぼありませんでした(*'ω'*)

 

 唯一、ガブリエルが現れる演出と、イエスが起こした奇跡と復活ですが、いかんせん、昔の映画でCGがないうえ、監督が無神論者ということもあり淡々としているので奇跡らしく見えません。

 

 聖母マリアの受胎告知から始まり、イエスが各地を放浪して後に十二使徒と知られる男たちを仲間に加え、神の御言葉を人々に伝え歩きます。

 

 ちゃんと、新約聖書の有名どころも抑えていて、事実を事実のまま描いているという印象が強いので、エンターテイメントとして観るなら面白いとはいえませんが、学術的に観るなら今あるイエスの伝記映画の中では一番中立的に描かれていると思います。

 

 実際の歴史は後世に語り継がれているような華々しいものではなく、このように淡々としていて泥臭いものだったのでしょうね( ̄▽ ̄) キリスト教の教えが絶対だった中世ではイエスの奇跡を疑うことすら重罪でしたが現代になって研究が進むとイエスの奇跡も理論的に説明できるものがほとんどになってきました(^▽^;)

 

 例えばイエスが神の子と呼ばれることになった奇跡は磔刑に処された後三日後に復活したという「イエスの復活」によるものですが、これは史実とは違っているでしょう。

 

 新約聖書の中では死後三日後にイエスが復活しマグダラのマリアの元に現れたことになっていますが、実際には墓穴が空になっていただけで復活したイエスの姿は目撃されていなかった説が有力です。

 

 ではどうして墓穴が空になっていたのか(。´・ω・)? いくつかの説が考えられています。有力な説は「遺体が移し替えられた説」「イエスが埋葬された墓穴を間違えた説」「生き返ったイエスを見たという集団催眠説」などです。

 

 どうです、復活したというよりはよっぽど信憑性がありそうですよね(^▽^;) 詳しくは『世界ミステリーch』さんのこの動画を観てください↓

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 今でこそ、色々着色されてキリスト教が神聖なもののようになっていますが、実際の歴史では、この映画で描かれているようにこんなものだったんだな、とリアルな作品になっています。イエスが起こした奇跡の数々も『世界ミステリーch』さんが理論的に解剖してくれているので興味があったら観てください↓

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 どうして、イエスという男がこれほど祀り上げられているのか(´-ω-`) もしかするとイエスを神の子と崇めることで利権を得ようとした弟子たちによる策略だったのかもしれないと思うこともあります。

 

 人々が勝手にイエスという男を祀り上げて、世界的な宗教にしてしまったと思えてならないのですよね。実際、どこからが本当のイエス像なのかもわかりませんし、そもそもイエスは初めから存在していなかったというとんでも説まであります。

 

 例えば、シェイクスピア天草四郎の話で例えますと、シェイクスピア天草四郎はグループ名だったのではないかっていう説もあるじゃないですか。だから、イエスという名前はグループ名で様々な伝承がイエスという人物に統合さたという仮説も否定できません(。´・ω・)?

 

 実際の歴史というのは、必ず語る誰かの主観が入って、伝言ゲーム、口承文学のように、姿を変えていきます。実際、今伝わっている歴史だって、少なからず改変されているはずなのですからね。

 

 だから、歴史を紡ぎ、語っていく過程で、実際には存在しない人物を創り出して、あたかも本当に存在していたように思いこませることだって可能なのです。まあ、実際にあったにしろ、なかったにしろ、イエスという人物を描いた伝記映画では、この映画が一番中立的だと思いました('◇')ゞ

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