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ゆる~くアニメだとか、映画の感想文

アニメ SF/ミステリー『バビロン』「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」

引用元:アニメハック・映画.com

 ※今回は過激な内容です。精神が不安定な人、あるいはグロテスクな内容や表現が苦手な人はお気を付けください<(_ _)> いい意味でも、悪い意味でもこれほどまでに賛否が分かれる作品をバニラはたぶん見たことがありません(;^ω^)

 

 レビュー数が多く、賛否が極端にわかれる作品は一見の価値があるとバニラは思っていますので観てみました。で、視聴した結果、善と悪、自殺などを扱った哲学的作品なので賛否がわかれる理由がわかりました(^▽^;)

 

 物語は東京の町田市・八王子市・多摩市と神奈川県から相模原市越境合併した新たな行政区、新域の構想が進んでいたある日、東京地検特捜部の正崎善(せいざき ぜん)はある事件で押収した捜査資料の中から、Fばかりが羅列された不気味な怪文書を部下の文緒厚彦(ふみお あつひこ)と共に発見します。

 

 その怪文書を書いた因幡(いなば)大学病院の准教授は謎の自殺をしており、捜査を進めると政治家との関与が判明します。政治家らの身辺調査を進める中で曲世愛(まがせ あい)という女性の存在を浮かび上がり、その直後、部下である文緒までが謎の自殺をしてしまいます……(´・ω・`)

 

 文緒に自殺する理由なんてないし、何者かに殺されたのだと思うのは当然の推論です。そんな謎の自殺事件の捜査が難航していると新たな事件が発生してしまいのです。新域から集団自殺をした人々のニュース正崎の元に飛び込んでくるんですね……(>_<)

 

 その集団自殺を引き起こしたのは曲世愛だと知り、正崎は曲世愛の過去を調べると、曲世愛には人を死に追いやったり、操る不思議な能力や、雰囲気を変えることで別人のようになれる能力があることを知ります。

 

 伊坂幸太郎さんの『グラスホッパ-』という小説に、という自殺専門の殺し屋が登場するのですが、鯨が命令すると対象者は何故か自殺をしてしまうという不思議な能力を持っていたのを思い出しました。曲世愛は鯨の上位互換的存在だと考えられます( ̄▽ ̄)

 

 と、この時点で本格ミステリー・サスペンスを期待して観ていた人は混乱してしまい賛否が分かれるようです(^▽^;) 異能の力が登場する『デスノート』のようなサスペンスだと考えてください。

 

 もし世界的名探偵であるLが存在していなかったら『デスノート』のような対象者の顔を知った状態で、名前を書けば死に追いやれる能力があったら完全犯罪達成ですよね(;^ω^)

 

 そこから今までのミステリー・サスペンスから一転して、曲世愛が裏で糸を引きながら自殺法という法律の制定を巡って世界中が議論を戦わせる展開になっていくんですね( ̄▽ ̄)

 

 つまり、この作品はLの存在しない『デスノート』であり、SF作品なんだと思います。どうしてSFなのか? 不思議に思われた方もいるでえしょう。本来SFとは、宇宙や未来の話にだけ与えられるジャンルではなく、もしもの世界を思考実験した作品にも与えられるジャンルだからです。

 

 例えば「もしも、○○の世界になったら!」というドラえもんのような作品はS(少し)F(不思議)な話ですよね! というのはちょっとした冗談で、ディストピアユートピアの世界を描いた作品もSFにジャンル分けされるように、この『バビロン』は自殺法という法律が世界にどのような影響を与えるかを思考実験するSFであると思います( ̄▽ ̄)

 

 自殺法を可決すべきか? 否決すべきか? そのためには自殺は善悪どちらなのかという問題を議論しなければならないのです。哲学とは不変で絶対の真理を探究する学問ですから、善悪にも絶対に否定できない善、絶対に否定できない悪を考える必要があります。

 

 その後、話は大きく変わり、新域の市長に立候補した若手議員、斎開化(いつき かいか)が人の自殺を認める「自殺法」の是非を高らかに宣言します。ここから自殺法は賛成か?反対か? 

 

 新域の市民や政治家たちに何度も問いかけて来ます(´-ω-`)「善とは何か?」「悪とは何か?」「自殺は悪いことか?」と(´・ω・`) 「そんなもん悪いに決まってるだろ!」と感情論で片付けてしまうのは安易です。

 

 最終的に各国の首相たちがサミットを開き、トロッコ問題や臓器くじの問題などを持ち出して、「どうして自殺はいけないのか?」を議論することになるんですね。ある政治家は社会経済的に自殺によって失われるGDP損失の額を挙げて否定していました。

 

 ネットの情報ですが日本では毎年平均して2万人以上の人が自殺によって命を落としているらしいです……。自殺は減っているとか言っているメディアもありますが、その代わり変死体が増えているらしいですね。不思議ですね~( ̄▽ ̄)

 

 つまり自殺と断定できる確証や物的証拠がない限りは、変死体、不審死、行方不明として処理されているわけです……(´-ω-`) そして、世界全体で見ると平均80万人が自殺で命を落としています。40秒に一人が自殺によって命を落としている計算になるそうですね(´-ω-`)

 

 今この記事を書いているときにも、読んでいるときにも世界のどこかで誰かが自殺で死んでいる。アドルフ・アイヒマンは「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」と言いました。

 

 毎年日本だけでも2~3万人、世界平均80万人が自殺で死んでいるのに、そのことを見てみぬふりをして、自殺を感情論的に否定してしまうのはいかなものか? 否定するということは自殺で亡くなった人の苦しみを否定するということなのですから。

 

 つまり、自殺が悪なのはGDPやリソースの損失になるからという否定意見も、もっともではあるのでしょうけど、バニラはこの市場原理、資本主義的な自殺の否定があまり好きではないんですよね(-_-;) 

 

 実際に資本主義社会において、人間の命、臓器、愛すら金で買えないものはなく、否定できませんが、この否定方法は利益によって人の命が左右されているし、結局市場原理による自殺の否定は社会にとっての悪であって、自殺する本人にとっての悪にはならないと思います(´-ω-`)

 

 斎は社会経済的観点からの否定意見に対し、「自殺法が施行されても、自殺者が急激に増えるとは限らない。現行の社会では、ある種の暴走として自殺を計ってしまったわけだが、自殺法の運用後は暴走ではなく、選択として死を選べるようになる。そうなれば、不慮の自殺が減少する可能性は十分ありえる」と反論します。

 

 否定派は「詭弁だ!」といいますが、斎の意見も十分説得力があるんですよね……(´-ω-`) もし自殺法が施行された社会で、自殺を考えている人が、行政に相談するとします。

 

 そうなると行政だって、何らかの対応はするでしょうし、そうなれば、自殺を考えていた人を救うこともできるかも知れない。自殺をしてしまう人の中には、誰にも相談できなくて溜め込んでしまう人も多いので、そのような相談できる窓口増えても自殺をすべて止めることはできないでしょうけど……。

 

 別の政治家は道徳的観点から自殺を否定していました。自殺が許容された社会では、人が突然いなくなってしまうかも知れないから、人と人の信頼関係が築き上げたものがすべて崩れ去ってしまう、と。

 

 そのような意見に斎は「道徳とは時代によって変わるものだ」といいます。「古い時代に不道徳とされた同性愛は、現代では各所で認められている。逆に男女の性差別はかつて問題にされなかったが、今では問題にされている」と。

 

 自殺を性差別と一緒にするなと、と反論しますが、確かに道徳は時代と共に変わっているのも確かです。盗みや殺人などいつの時代も普遍的な不道徳があると反論すると、斎は「では、自殺はどちらなのでしょうか?」と返してくるんですね。

 

 そう言われると答えられる人なんているでしょうか? よっぽどでない限り深く考えない問題で、答えられる人は少ないでしょう。「自殺法は人を自殺に向き合わせ、そのとき市民は初めて自殺について真剣に議論します」と斎はたたみ掛けます(´-ω-`)

 

 男女の性差別の問題しかり、人間は問題にされて初めて考えるものなのです。最後の意見は「人は死に対して冷静になれない。人は感情に左右され、時に過ちを犯す生き物で、自殺すれば取り返しが付かない。だから自殺法は感情のある人間には扱い切れない」という自殺は関わった多くの人を不幸にするという感情論的否定意見です。

 

 そして斎の反論は、「自殺法とは、誤って自殺しないための法律」なのだと言います。バニラは中立の立場で否定も肯定もしませんが、このようにサスペンスではなく哲学的作品になっているので賛否が分かれる理由がわかりました( ̄▽ ̄) 

 

 つまり、作者の野崎まどさんはこの『バビロン』を書くことで、真理を探究しているのです。だけど、真理のしっぽがつかめそうで、つかめない……。最後野崎さんは自殺を悪だとする普遍的真理に「終わること」という結論に辿り着きました。

 

「生命が続くことは『善』」であり「終わることは『悪』」なのだと。確かに一瞬バニラも納得しましたが、少し考えると人間の種として「終わることは『悪』」でも、個人の問題を考えると悪になりえないと思います。

 

『サピエンス全史』でハラリ氏は「農業革命は史上最大の詐欺だった」と逆転の発想を展開されていました。人類は農業革命によって農作を始めたからってすぐには豊かになったのではないんですね( ̄▽ ̄)

 

 それどころか狩猟採集時代の方が食生活は豊かで幸福度は意外に高かったのではないいか?というデータもあります。現代人の感覚からしたら、狩猟採集時代より現代の方が食生活は豊かになり、幸福になっているのは明白ですが、現代にいたるまでには干ばつや、自然災害など様々な原因で作物を安定的に得られず、土地を求めての戦争が続き暗黒の時代が何十世紀も続いていたことを考えると納得ですよね(^▽^;)

 

 なのにどうして人類は農業を辞めなかったのか? それは周囲の人々が農耕を始めムラやクニを造るようになったら、狩猟採集民の少数グループでは対抗できなかったから、いやいやでも農耕によってムラを形成して対抗するしかなかったからだとされています。

 

 つまり、種を増やす(続く)というのがDNAの本懐であって、個の幸福は考えられていなかったのです。それと同じで自殺には人間個としての善悪、種全体としての善悪のどちらを選ぶかで変わる相対主義的なところが大きいと思います。

 

 とまあ、とんでもなく長くなりましたが、ちょっとした表現でもバッシングされる厳しい時代に、よくこんな自殺を扱った過激な内容の作品を映像化してくれたと、企画者や製作者さんたちの勇気はどうあろうと称賛すべきだと思います( ̄▽ ̄) 

 

 賛否は分かれるでしょうけど、スリルがあって、考えさせられる作品なので、バニラは楽しめました('◇')ゞ

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