ゆる文

ゆる~くアニメだとか、映画の感想文

映画 ドラマ『道』「こんな石ころでも何かの役に立っている。なんの役に立っているのかわからないけど、何かの役に立っているんだ」

引用元:aucview.aucfan.com

ストーリー

イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの代表作のひとつで、旅回りの芸人たちの悲哀を描き、第29回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した古典的名作。貧しい家庭に生まれ育った知的障害の女性ジェルソミーナは力自慢の大道芸人ザンパノに買われ、彼の助手として旅回りに出る。粗暴で女好きなザンパノに嫌気が差したジェルソミーナは彼のもとから逃げ出すが、捕まって連れ戻されてしまう。そんなある日、2人はサーカス団と合流することになり、ジェルソミーナは綱渡りの陽気な青年と親しくなる。青年の言葉に励まされ、ザンパノのもとで生きていくことを決意するジェルソミーナだったが……。「アラビアのロレンス」のアンソニー・クインがザンパノ、フェリーニ監督の公私にわたるパートナーであるジュリエッタ・マシーナがジェルソミーナを演じた。1954年製作で日本では57年に劇場初公開。2020年、フェリーニ生誕100年を記念した「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」(2020年7月31日~8月20日=東京・YEBISU GARDEN CINEMAほか)でも上映。

1954年製作/108分/イタリア
原題:La strada
配給:コピアポア・フィルム
劇場公開日:2020年8月3日

その他の公開日:1957年5月25日(日本初公開)

引用元:https://eiga.com/movie/65473/

登場人物・キャスト

  • ザンパノ:アンソニー・クイン小松方正)- Zampanòという名前の由来のzampa(ザンパ)は動物の脚やひずめ諧謔で人間のにも使われる。粗野の象徴。有名な豚料理ザンポーネZampone)はこれの語形変化。ザンパノの粗暴は、同業の綱渡り道化師イル・マットを殴り倒し、自動車を川に沈め、ワイン酒場で喧嘩をして追い出され、店外に置いてあるドラム缶をスクリーンのほうに放り投げる。道化師としての彼は、ディケンズクリスマス・キャロル』さながらの鎖芸を見世物とする。これは、鎖を胸に巻き付け、鉤(フック)を破壊して封印を解くという素朴な怪力芸で、「鋼鉄の肺の男」の異名を持つ。彼はアメリカ製のバイクで巡業する。このバイクは、『道』の前年に公開されたチネチッタ作品『ローマの休日』の「ベスパ」のような小洒落たところのない、おんぼろバイクである(『ローマの休日』ヒロイン王女アンが序盤で忍び込む3輪トラックのような荷台が付いている)。旅先で女性たちといい仲になるが、ラヴ・シーンの映像はない。また同じくチネチッタ作品『クォ・ヴァディス』(1951年)についていえば、『道』には「Dove vai?」(ドヴェ ヴァイ?)というザンパノの台詞が終盤に出て来る。このイタリア語はラテン語Quo vadis?」(クォ ヴァディス?)と同義である(映画『クォ・ヴァディス』は、イエスが「最後の晩餐」の際に弟子ペトロから問われたその言葉「Quo vadis? / どこへ行かれるのですか?」が映画の題名になっている)。脚本ではザンパノは終盤のサーカスで鎖芸を失敗するが、映画の映像は失敗したかどうかはっきりわかる時点までを追わず、あくまでザンパノのそれはスクリーンの向こうの観覧者に委ねられる。

 

  • ジェルソミーナ:ジュリエッタ・マシーナ市原悦子)- Gelsomina[* 1]ジャスミンの花。純粋の象徴。このショートカット・ヘアの女の子ジェルソミーナを演じる俳優ジュリエッタ・マシーナフェリーニ監督の妻で、ムッソリーニ政権から隠れて生活していた2人は政権崩壊後の1943年10月に結婚した。ジェルソミーナは映画の中でザンパノからぞんざいに扱われ、時に「Siete una bestia! / ケダモノ!」(スィエテ ウナ ベースティア!)とザンパノを罵る。彼女は旅の途中でトマトを栽培しようとする突飛な行動に出て、構わず巡業に出発するザンパノから「Che pomodori / ケッ、トマトだと」(ケッ ポモドーリ)と蔑まれつつ、リンゴを渡される[* 2]。彼女は中盤で綱渡り芸人イル・マットに付き従う。ザンパノがイル・マットを殺してからは、「うんうん」と声をあげながら、うわごとを言うようになる。ザンパノと離れて何年かの後、生命を終える。ジェルソミーナは、まるで天使のような役回り[6]

 

  • 綱渡り芸人:リチャード・ベイスハート愛川欽也)- il Matto狂人の意味[* 3]。映画のオープニングクレジットタイトルに「Il “Matto”」という役名が流れる。「イル・マット」や「キ印」(きじるし)と訳されることがある。芸達者な彼は綱渡りの綱の上にテーブルとイスをセットしてスパゲッティを食べる。ローマのある公演では空中ブランコの曲芸を披露。このほか、小型バイオリンを弾きこなし悲しいメロディ(映画『道』テーマ曲)を奏でながら、自分の尻に向けてジェルソミーナにラッパを「ブー」と吹かせるシーンがある。イル・マットはジェルソミーナに、ザンパノという男は犬と同じで、ジェルソミーナを好きで話をしたいのに吠えるしかないのだと説く。彼はザンパノをとことんからかい、ザンパノは大爆発する。ザンパノは喜劇でライフル銃を持ち、ライフル銃の意の単語「fucile」(フチーレ)をきちんと言わず、「ciufile」(チゥフィーレ)という馬鹿っぽく人畜無害な印象を与える言い方をして、そのせいでジェルソミーナはザンパノを怖がらない[7]。それにより人々らを面白がらせるのだが、「鋼鉄の肺を持つ男」であるザンパノは、いちいちイル・マットから可愛らしく「チゥフィーレ」呼ばわりされて相当頭に来ていた[* 4]。ある日、彼はザンパノの3発(後にザンパノは2発と言っている[* 5])で打ちどころを悪くして死んでしまう。イル・マットを殴り倒した時、彼は「チゥフィーレ」のお礼だと捨て台詞を吐く。映画評論家・淀川長治の解説では、このイル・マットは神である[8]

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/道_(1954年の映画)

感想

人間の孤独や悲哀を描き、第29回アカデミー賞外国語映画賞」を受賞した、フェデリコ・フェリーニ監督が自他共に認める代表作にして、古典的名作となった『道』

粗暴で亭主関白な旅芸人のザンパノは、貧しい家庭に生まれ育った知的障害のあるジェルソミーナを買い取り、一緒に旅をすることになる。

引用元:映画『道』

だがジェルソミーナは、ザンパノの粗暴さに愛想を尽かし、ザンパノの元から逃げ出してしまい、当てもなく彷徨っていたジェルソミーナは、偶然立ち寄った町でサーカス団の綱渡り芸人と出会い、こんな話を教えてもらうのだった。

 

「こんな石ころでも何かの役に立っている。なんの役に立っているのかわからないけど、何かの役に立っているんだ」

 

その話を聞いたジェルソミーナは、ザンパノには自分が必要なのだと思い、ザンパノのもとに戻ることを決めるのだった。

引用元:映画『道』

Wikipediaの情報によると、フェデリコ・フェリーニ監督は『私は映画だ/夢と回想』という自身の著書の中で、『道』についてこのように語っているそうです。

 

  • 近代人としての私たちの悩みは孤独感です。そしてこれは私たちの存在の奥底からやってくるのです。どのような祝典も、政治的交響曲もそこから逃れようと望むことはできません。ただ人間と人間のあいだでだけ、この孤独を断つことができるし、ただ一人一人の人間を通してだけ、一種のメッセージを伝えることができて、一人の人間ともう一人の人間との深遠な絆を彼らに理解させ —— いや、発見させることができるのです。
  • まったく人間的でありふれたテーマを展開するとき、私は自分で忍耐の限度をはるかに越える苦しみと不運にしばしば直面しているのに気づきます。直観が生まれ出るのはこのようなときです。それはまた、私たちの本性を超越するさまざまな価値への信仰が生まれ出るときでもあります。そのような場合に、私が自分の映画で見せたがる大海とか、はるかな空とかは、もはや十分なものではありません。海や空のかなたに、たぶんひどい苦しみか、涙のなぐさめを通して、神をかいま見ることができるでしょう —— それは神学上の信仰のことというよりも、魂が深く必要とする神の愛と恵みです。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/道_(1954年の映画) 

 

引用文の書き出しに記された通り、近代人の悩みは孤独感でしょう。

ザンパノとは近代人の象徴であり、ジェルソミーナは愛そのものの象徴に置き換えることができるのです。

ザンパノは一人で何でもできて一人でも生きていけますが、だからこそ孤独なんですね。

それに引き換え、ジェルソミーナは一人では生きることができませんから、ザンパノの側にいなければなりません。

ザンパノは足手まといのジェルソミーナのことを厄介者扱いするでしょうが、ジェルソミーナがいてくれるおかげでザンパノは孤独ではないのです。

引用元:映画『道』

石ころの例え話はまさにこのことを表していると思います。

道端の石ころでも、何らかの役に立っているように、ジェルソミーナもザンパノの孤独を癒すという役に立っていたのです。

そう悟って間もなくです……ザンパノの粗暴さが悲劇を招くことになるんですね……(-_-;)

ザンパノはジェルソミーナに石ころの話を教えてくれた綱渡り芸人に恨みがあり、手違いで殺してしまうのでした……。

引用元:映画『道』

引用元:映画『道』

そのことで、ジェルソミーナは精神を壊してしまうのです……。

この皮肉が利いているんですよ……。

綱渡り芸人は「石ころでも何かの役に立って入いる」という話をしましたが、この石のたとえ話は、石=人間の比喩でもあり、人間は存在するだけで誰かの役に立っているということなのに、石=ザンパノがジェルソミーナの恩人でもある綱渡り芸人を殺してしまうんですよ……。

まさにアンチテーゼですよね……(-_-;)

そして、そのことが原因で精神を壊してしまったジェルソミーナを置いて、ザンパノは一人旅立ってしまうのです。

 

それから数年の月日が流れ、ザンパノは立ち寄った村で聴き憶えのある歌を聴き、その歌を歌っていた旅芸人の女性が死んだという話を聞きます。

その女性とは当然ジェルソミーナであり、ザンパノはその話を聞いて初めて、自分が孤独になったことに気付いたように、夜の海で泣き崩れるところで物語が終わるのでした。

人間として生きることの悲しさをこれほどまで描いている作品は稀ですよ(T△T)

すべてが悲しく感じます。

ジェルソミーナのチャップリンのようなコミカルな表情からすら悲しみを感じますね。

引用元:映画『道』

ハッキリ言って、面白い作品ではありません(^▽^;)

印象的な場面も取り立ててあるわけではなく、人によっては退屈と感じる映画です。

ですが、不思議なことに観終わった後にすごく記憶に残っている映画なんですよ(; ・`д・´)

印象に残るようなシーンがそれほどあったとは思えないのに、ストーリーを最初から最後まで思い出すことができてしまいます。

 

映画には二種類の映画があるとバニラは思っています。

一つは「すぐに役に立つ映画」でもう一つは「後々役に立つ映画」です。

「すぐに役に立つ映画」とは、観ているときに楽しい娯楽映画のことで「後々役に立つ映画」とは観ているときは楽しくなかったのに、時が経つにつれて深みを増す映画のことです。

そして本作『道』は後者なんですね( ̄▽ ̄)

観ていて楽しいなど、すぐに役立つわけではありませんが、生きる上で大切な教えが詰め込まれていて、後々の人生の大きな糧となる作品だと思います。

「本当に大切なことは失ってから気づく」と言いますが、この映画を教訓に失う前に気付きたいものですね(≧▽≦)ゝ

予告

www.youtube.com