ゆる文

ゆる~くアニメだとか、映画の感想文

アニメ ドラマ/ミステリー『ブラック・ジャック〈OVA〉』「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」

引用元:Amazon

 白い巨塔の崩壊は留まるところを知らず、命のやり取りをする医療は低迷を極めていた。有名大学病院はブランド力の強化に奔走し、一方、高いスキルを持つ外科医は高額な金で海外に流出。医学界はさらなるグローバルな弱肉強食の時代に突入した。そんな中、どこの組織にも属さない無免許医、すなわち一匹狼のドクターが現れた。例えばこの男。群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、無免許医のライセンスと叩き上げまくりのスキルだけが彼の武器だ。万能医、間黒男、またの名をブラック・ジャック――。

 

 元祖、群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、無免許医のライセンスと叩き上げのスキルを武器にした一匹狼のドクター、かの天才、手塚治虫が世に送り出した医療漫画の金字塔『ブラック・ジャック』を原作として出崎統(でざき おさむ)さん監督でアレンジされたOVAシリーズです(≧▽≦) 出崎さんの経歴を調べてみたら『あしたのジョー』『エースをねらえ!』『ガンバの冒険』『宝島』などを手掛けた人だということを初めて知って驚きましたΣ(゚Д゚) 

 

 日本アニメ界を牽引してきたレジェンドじゃないですか! シーンの見せ場や変わり目などで劇画タッチの静止画になる演出は出崎さんの発明だったのですね。最近のアニメも面白いですが、昔のアニメって現代のアニメでは決して描けない不思議な力があると常々思います。最近はほぼ100%デジタル制作になりましたが、昔はセル画という画材に絵を重ねて制作するスタイルだったそうです。当然デジタル以上にアナログは大変ですよね。デジタル画も当然素晴らしいですが、アナログはデジタルでは出せない味があります(*´▽`*) 

 

 例えば、最近の『ワンピース』を見ていて思うのですが、グランドライン編のワンピースの作画が好きでした(ワンピースもいつからセル画からデジタルに移行したかわかりませんが……)。まあ何が言いたいって、この『ブラック・ジャックOVA〉』はセル画時代の作品ですから、手塚治虫さんのストーリーっと出崎さんの演出が相まって迫力が凄いです(≧▽≦) 

 

 どの話も傑作ぞろいの全12話「カルテ1:流氷、キマイラの男(原作:ハリケーン)」「カルテ2:葬列遊戯(完全オリジナル)」「カルテ3:マリアたちの勲章(原作:約束)」「カルテ4:拒食、ふたりの黒い医者(原作:ふたりの黒い医者、あるスターの死)」「カルテ5:サンメリーダのフクロウ(原作:過ぎさりし一瞬)」「カルテ6:雪の夜ばなし、恋姫(完全オリジナル)」「カルテ7:白い正義(原作:白い正義)」「カルテ8:緑の想い(原作:木の芽、老人と木)」「カルテ9:人面瘡(原作:人面瘡)」「カルテ10:しずむ女(原作:しずむ女)』になります。

 

 カルテ11とカルテ12はFINALという枠組みで個別に分けられているので今回は取り上げません。バニラは原作の『ブラック・ジャック』を読んだことがないので、原作との差異はわかりませんが、どの作品も哲学的です(´・ω・`) すべて傑作と呼べますが、バニラが特に良いと思ったのは『カルテ4:ふたりの黒い医者』『カルテ7:白い正義』『カルテ8:緑の想い』『カルテ9:人面瘡』『カルテ10:しずむ女』の五話です。『ふたりの黒い医者』では安楽死と人間の尊厳のテーマが強く扱われ、『白い正義』では医者たちの名誉や権威よりも患者を優先すべきという話です。

 

『緑の想い』は突然体に植物が生えて来た少年と、何千年も生き続ける大樹と老人の話で、『人面瘡』は人の心の問題を取り上げられます。『しずむ女』では公害病で苦しむ人々のリアルな問題と、ブラック・ジャック先生のことを好きになった少女月子ちゃんが、最後人魚姫のように死んでしまう話なんですね(;´Д`) 月子ちゃんは本当に人魚だったのではないかと考察がはかどる幕引きになっていました。

 

 人間は必ず病みます。仏教の四苦八苦の中に生老病死が含まれている通り、生まれて、老いて、病んで、死ぬ、生まれたからには逃れられない運命でしょう(´・ω・`) 医療とはそれらすべてに深く関わるもので、医療ドラマは人間ドラマです。生老病死に答えはありませんが、答えのない問いに挑む患者と医者の姿は生きるとは死ぬとはなどの言葉にできない感情がこみ上げてきて、考えさせられるものがありますね(´-ω-`)――。

アニメ 日常『であいもん』「まるたけえびすに おしおいけ あねさんろっかく たこにしき」

引用元:アニメイトタイムズ

 大きな事件は起きない、いわゆる日常系の作品は好みが分かれると思いますが、バニラはついつい観てしまいます。この言い方が正しいのか自分でもわかりませんが、安心して観られるのですよね( ̄▽ ̄) 『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』とか、ストーリーを気にしなくても、基本一話完結だから観やすいですし、温かな気持ちになれます。

 

 この『であいもん』も京都の老舗和菓子屋を舞台に、バンドマンになる夢破れ実家の和菓子屋に帰って来た主人公納野和(いりの なごむ)が、色々な人と触れ合い、和菓子の奥深さを再発見しながら、父親に置いて行かれた少女雪平一果(ゆきひら いつか)の父親代わりになるために奮闘する、奮闘記です。絵柄が水彩画のように淡く儚い感じで、線は繊細で美しいです。

 

 漫画家やアニメーターの人って本当にすごいと毎回思わされます。漫画家やアニメーター同様、和菓子の世界も職人の世界で、アニメで描かれる和菓子作りのシーンは細かいです。京都の方言と町並みなど、京都を舞台にした作品は数ありますが、この『であいもん』の京都の世界観は優しく温かいです(≧▽≦)

映画 SF/スリラー『ザ・セル』「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

引用元:Filmarks

 人間を含む生物には無意識という、意識に上らない意識というものが存在していることを発見したのは、精神分析学の基礎を築いたフロイトです。フロイトは、子供の性発達段階には口唇期、肛門期、男根期、潜在期、性器期という5つの発達段階があり、その期間ごとに性的発達が複雑に絡み合い成長すると精神性発達理論幼児性欲理論などで提唱しました。

 現代ではフロイトの説には信憑性がないなどと軽視されることがあるそうですが、すべてを否定することはできないと思います(`・ω・´) 人間を含むすべての動物を動機付けするのは快楽ですよね。その快楽を生み出しているのは脳内物質であるドーパミンだとされています。ドーパミン分泌の実験で有名なのは、ネズミの脳の側坐核と呼ばれる個所に電極を差し込んで、レバーを押させるという実験でしょう。脳の側坐核を刺激すると、ドーパミンが分泌され、ネズミは食事も睡眠も忘れて、レバーを押し続けたらしいです(´-ω-`)

 

 この実験でわかるのは、生物はドーパミンによる快楽によって動機付けされているということです( ̄▽ ̄) 生きる上でなくなてならない物質ですが、様々な依存症や苦しみの原因にもなる物質でもあります……(~_~;) 極端に言ってしまえば、すべての生物はDNAによってプログラムされたドーパミンによって操られているわけですね( ̄▽ ̄) 人間には自由意思など存在していないと現代の脳科学などでは定説になっていて、すべては脳のゆらぎによる無意識の選択で、人間は自分の行動理由を後から説明しているだけなのです。

 

 その話と、フロイトの精神性発達理論に何の関係があるかといいますと、大人でも子供でも快感がないと行動しないということです。赤ちゃんの場合、母親の母乳などを飲まないといけないので口唇からの快楽が強く、成長していくに従い、肛門や男根、性器などへの刺激への快感が強くなるから、老若男女ほぼ問わず利己的な遺伝子を遺すために性行為に取り組むわけです( ̄▽ ̄)

 

 そして、この映画『ザ・セル』は人間の無意識を扱った初の映画ではないでしょうか(初かどうかは知らんけど(。´・ω・)?)。先進的な医療施設キャンベルセンターで働く小児精神科医キャサリンは人間の内面世界、つまり心の中に入れる特殊な技術を使い、昏睡状態の子供たちの心に入り対話を試みていました。そんなある日、女性ばかりを殺し、殺した女性を漂白剤に浸けて脱色した後、人形のようにしてしまうという猟奇連続殺人犯のカール・スターガーがセンターに運び込まれて来ます。

 

 カールは意識を失う前に新たな女性を、少しずつ水が溜まる仕組みの水槽の中に閉じ込めており、その女性を監禁している場所を聞き出すために心にダイブできるキャサリンに白羽の矢が立ったのです。キャサリンは女性を救うためにカールの精神世界にダイブしますが、そこは今まで観たこともない悪夢のような精神世界だったのです(;´Д`) 馬が輪切りされたり、漂白された女性が展示されていたり、サタンのような悪魔?がその世界を支配していたり、文章では表現しきれません……(;´・ω・)

 

 カールはどうしてそんな精神世界を構築してしまったのか? 物語が進むにつれて、少しづつ明らかにされます(´-ω-`) カールは複雑な家庭で育ち、幼い頃父親から虐待されていたらしいのです……(>_<) 親からの愛情をもらえなかったとか、虐待されていた人みんながみんな犯罪を犯すわけではないということは留意しなければなりませんが、ある実験では反社会的なことを犯す確率は、幼少期に虐待や複雑な環境で育った人と、そうでない人では、やはり虐待を受けた人の方が高くなるのは確かなようです……(~_~;) 

 

 そのような場合事件などが起きると、誰が悪いんだって話になりますよね……。その父親だって、幼少のころ複雑な環境で育ったかもしれないし、その父親の親だって、その親の親だって……。心の痛くなる話ですが、「親の不幸は子の不幸」……になってしまう確率は高いです(>_<) 不幸は連鎖します……。じゃあ結局、誰に責任の所在があるのか? 「どこから間違えてしまったのか?」を辿って行くと、じゃあ「生まれない方がいいじゃん」という反出生主義が最適解になりますよね(・ω・)

 

 大乗仏教では教えが捻じ曲げられていますが、元始仏教では反出生こそが解脱であり、救いだというようなことが説かれています。輪廻転生って仏教思想にはあるじゃないですか。生物は「天道」「人道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の六つの四苦八苦の絶えない世界を輪廻転生していて、その苦しみから解放(解脱)する方法は悟りを開くことだとされています。仏教徒たちは悟りを開くために、日々厳しい修行に耐えているわけです。

 

 バニラは輪廻転生しているものはDNAだと考えます。そう考えると、科学的にも説明がつくのですよ。つまり悟りにもいくつかありますが、一つの反生殖であり、古代から脈々と続く自分のDNAを途絶えさせることが本当の解脱だというふうに解釈しています。信じるか信じないかはあなた次第です! と、話しがそれましたが、カールは複雑な幼少時代を経て、精神分離症、今でいう統合失調症のような精神病になってしまいました(病気のかなりは遺伝するので、複雑な家庭環境も原因ではあるでしょうけど、スターガー家のDNAにも問題因子があった可能性も高いと思いますが)。

 

 なんとかキャサリンはカール(善)と対話を試みますが、カール(悪)が妨害してきます。カールの精神世界のいたるところにメタファー的と思われるものが散りばめられていて、カールの精神分析を行う上でかなりのヒントになりそうです。そして、この世の地獄で苦しむカールを救うことはできるのか……? 22年前の作品ですが、今なお時代の先を行くSF映画だと思いました――(≧▽≦)

映画 SF/アクション 『シックス・デイ』「不老不死になりたいかぁぁぁぁぁ!」

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引用元:Filmarks

 生命科学の発展によって、クローン製造技術が確立された近未来のアメリカでは、人間のクローンを生み出すことが法律によって固く禁じられていた。そんな近未来のアメリカで、シュワルツェネッガー、通称シュワちゃん演じる、アダム・ギブソンは雪山登山のフライトキャプチャー業を営み、妻のナタリー娘のクララ愛し、満ち足りた毎日を送っていました。アダムの誕生日が近づいていた、そんなある日、愛犬のオリヴァーが老齢による感染症かな? で死んでしまうのでした(´-ω-`)

 

 オリヴァーが亡くなったことが知られると、クララは悲しんでしまう。そこで、ナタリーはオリヴァーのクローンを作ろうとするのですが、アダムはクローンを毛嫌いしていて、それを許しません。そのような問題を抱えながら、フライトキャプチャー業の仕事中にある事件に巻き込まれてしまい……。ここで話は少し飛んで、何事もなかった、ように娘が欲しいとねだった人形を買ってアダムが家に帰ってみると、自分のクローンがすでに家に帰っているのでした……。

 

 そこから、アダムは謎の組織に何故か追われることになってしまうのです。シュワちゃんの作品なら当然ですが、アクションが凄いです(≧▽≦) こういうのを見るとアメリカだな~と思いますね~。しかも、意外と人を平気でひき殺したり、首の骨を折ったりしてあっさりとやってしまうのも、アメリカだな~と思います(おまえはアメリカにどんなイメージもってんねん( `ー´)ノ)。

 

 人間のクローン製造が禁止されているのに、どうしてアダムのクローンが製造されたのか? 謎の組織の正体は? この作品は、2000年の作品みたいで、今から22年も前の作品ですが、今現在、この『シックス・デイ』の世界に追いついているのですから、人間が想像できることは実現できる、みたいな話がありますが本当ですね(´-ω-`)

 

 倫理道徳、人道的な問題で、現在クローンを生み出すことはタブーとされていますが、クローンを生み出そうと思えば生み出せるのですからね。中国では、猿のクローンを生み出したみたいな話を以前ニュースでやっていませんでしたっけ? つまり、やらないだけでデザイナーベイビーや、人間のクローンもすでに生み出せるのですよ。もし、そうなら、人間は自己の同一性の問題さへ捨ててしまえば、すでに不老不死になっているようなものだと思うのですΣ(・ω・ノ)ノ!

 

 どういうことかといいますと、あなたをあんたたらしめている、バニラをバニラたらしめている認識は、生まれたときから、今までの記憶ですよね。記憶があるから、自分は自分という同一性が保たれているわけです。ですが、もし同じ記憶を持つクローンを生み出せたとして、今あなたの目の前に立っているクローンはあなただと言えるでしょうか? そうです、脳が繋がっていないのだから、同じ記憶を共有していようと、それはもはや別人です。

 

 が、もしその問題を克服できればどうでしょう? そうです、人間は不老不死になれるのですΣ(゚Д゚) どうやって克服するかが問題ですが、バニラがたどり着いた答えはデータ至上主義へのマインドシフトが関係していると思うのですね。「データ至上主義」とは、『サピエンス全史』で知られるハラリ氏の『ホモ・デウス』に書かれていたデータを至上のものとする思想のことです。今、あなたはあなたの、バニラはバニラの同一性を至上の存在にしていますが、それを記憶だとかアルゴリズムなどのデータを至上の存在にできるマインドに移行できればどうなると思いますか? 

 

 たぶん、自分が死んでも自分のデータを引き継いだクローンが生きていれば、それで生きていると思えるようになるのだと思うのです。そう思うためには、人間から自己の同一性の神聖視をなくする必要があるのだと考えるわけですよ。オカルトや都市伝説的な話になっていますが、もしかするとこれから100~500年の間には、そのような世界になっている可能性も0ではないと思います。バニラは真剣です(゚∀゚)(Σ(゚Д゚)ヤバい奴や……)。

 

  かのアインシュタインも人間がシフトアップするには、思考の転換が必要みたいなことを言っていたとかいないとか、これから先何百、何千と年月が流れれば、データ至上主義へのマインドシフトが行われないとはいえません。だって、今現在だって、メタバース(拡張現実)とか、デジタル化とか、トランスヒューマニズムとかが広まり始めているのですから。信じるか信じないかは、あなた次第です!(゚∀゚)

映画 戦争/ドラマ 『みかんの丘』「話せばわかり合えるとは言わないけれど――」

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引用元:Amazon

 バニラはきっとこういう作品が好きなのでしょうね(*'ω'*) セリフではなく、登場人物たちは演技で語ってくれます。「目は口程に物を言う」といいますが、下手に変なセリフや解説を入れると蛇足になることもありますし、視聴者の想像の余地を奪ってしまうので、”余白の美”というものを作中に取り入れているのは技術高いと思います。近年はとにかく「面白くなくなってもいいから、わかりやすくしろ」と製作者側は言われるらしく、わかりやすくするのに苦労しているらしいですね。

 

 わかりやすい=陳腐という訳ではありませんありませんが、解釈の余地があることで生み出せる芸術性のようなものは間違いなくあると思います。これからも一定数はこういう解釈の余地を残してくれている作品も制作して欲しいものです(≧▽≦) 例えば、小説ならともなく、漫画などではセリフが多いと読みずらいときありますよね。特にアクションシーンとか。漫画などは下手にセリフを使わず、絵だけで見せる方がいいのと同じです。

 

 苦しいながらも人間らしさを失わない、絶望の中に希望があるパンドラの壺のようなドラマとでもいうのでしょうか。アカデミー賞外国語映画賞受賞しているだけあって、やはり観てよかった( *´艸`) 舞台はジョージアの最西端にあるアブハジアという地域にあるミカン畑らしいです。アブハジアジョージアからの独立を求めたため、1992~1993年に戦争があったらしく、つまり、アブハジア側とジョージア側の軍が戦闘をしているのですね。

 

 そんな戦火の激しいアブハジアイヴォというみかんの木箱作りを生業とするお爺さんと、マルゴスというおじさんだけが逃げずに残っているいるのです。マルゴスはみかんの丘が心配だから残っているのですが、イヴォが残っている理由は最後まで明確には明かされません。そんなある日、イヴォとマルゴスが守るみかんの丘で、二人の兵士を助けることになります。一人はアブハジア側の兵士ハメド、もう一人はジョージア側の兵士ニカでした。

 

 意識を取り戻したアハメドは敵兵であるニカを殺そうとしますが、イヴォの面目を立てて、イヴォの家では殺さない誓いを立てます。そこから、敵同士のアハメドとニカの奇妙な共同生活がしばらく続き、敵同士で殺し合っていたはずの二人は、少しずつ心を通わせていくという物語でした。いや~、みんながみんな話せばわかり合えるとか性善説を信じているわけではありませんが、中にはわかり合える人がいることも確かなのですよね(´-ω-`)

 

 兵士たちだって少年漫画の主人公のような戦闘狂ではないでしょうから、好きで殺し合っているわけではないでしょうし……。自分が信じる正義のために、家族や祖国を護るために戦っているのです……。正義の対義語は正義であり、どこにも正義なんてないのですけどね……。「正義のため!」とか「○○のために!」とか声高に叫ぶ人の言葉はどうも胡散臭く感じてしまうのはバニラだけではないと思います(~_~;)

 

寄生獣』という漫画にミギーというキャラがいるのですが、そのミギーが言った言葉に「私は恥ずかしげもなく「地球のために」という人間が嫌いだ……何故なら、地球は初めから泣きも笑いもしないからだ」というセリフがあるのです。このセリフを読んで気づかされました。「○○のために!」など何かのためにと声高に叫ぶ人は結局自分のために言っているということに――。「地球のために」というのは、「地球がおかしくなったら自分たちが困るから」、「人に優しくするのは、自分も優しくしてもらわなければならないから」、「人を殺してはいけないのは、廻りまわって自分が殺されないため」にと、すべては利己行動で説明できます( ̄▽ ̄)

 

 生物はみんな例外なく利己的な遺伝子の働きで、利己的に行動する機械のようなものですから、利他行動なんてそもそも存在しないというのがバニラの結論です。だから、その事実を否定するのではなく、肯定するしかないと思うのです。誰かのために、何かのためになるならWIN-WINな関係で良いのだと肯定するのです。戦争となったらそんな綺麗ごとなど通用しないでしょうが……。人間が誕生てから、現代にいたるまでの人間の歴史は争いの歴史なのですからね。

 

 殺して殺されてが当たり前で、そんな時代で現代のように「戦争はいけない」「話し合えばわかり合える」などの綺麗ごとは通用しなかったでしょう。不条理に思えますが、本来この世界は弱肉強食でそちらの方が現実なのでしょう(´-ω-`) 今こうやって平和を享受できているのは、本当に本当に当たり前のことではないのですから。なのに、争いは絶えないのだから、虚しくなりますね。

 

 脳科学者の池谷裕二さんの本に「戦争は非人間的なものではなく、人間的なもの」だというようなことが書かれていたのが印象に残っていますが、正にだと思いました(´-ω-`) でも、いつの時代も、そのような社会にあっても、この映画のイヴォやマルゴス、アハメド、ニカのような人たちがいるのです( ;∀;) それが絶望の中にある希望だと思います。人間捨てたもんじゃない(ノД`)・゜・。(そのセリフ以前も聞いたで(´・ω・`))。

映画 歴史/ドラマ『沈黙-サイレンス-』「信じる者は救われる」

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引用元:Amazon

 昔、日本で本当にあったキリシタン弾圧を描いた歴史超大作(≧▽≦) ニ、三年前かな? 読んだことあります、が時代背景とか宗教の知識とかが全然わかっていなくて、まったく描写を想像することができませんでしたが、映像で観るとよくわかりますね。言わずもがなかもしれませんが、この作品は遠藤周作という小説家の『沈黙』の映像化作品です。遠藤周作さんは日本人という存在を生涯にわたり研究し続けた方です。

 

 日本の常識は世界の非常識などと言われますよね。日本に住んでいると気づきませんが、いや同調圧力集団主義が強くて目立つことを避けがちなので、おかしいと思っても言い出せませんが、確かにちょっと異常とも思われることがありますよね( ̄▽ ̄) そして特に日本人の宗教観、信仰心とは世界から見ると異質だとよく聞きます。結婚式は教会で、新年の初詣は神社で、死んだらお寺で、そして海外の色々な文化を吸収して、独自の文化を生み出す。

 

 一応日本の国教である仏教ですら原始仏教とはかなりかけ離れた大乗仏教を取り入れ、その大乗仏教ですら日本の神道の神々と神仏混交(習合)などをしてしまう。そのような日本を、本作では沼に例えられていました。日本にはどんな宗教も根ずくことがないのだと。根付くことはないとは思いませんが、欧米や西洋の人々が考える宗教観とは恐らく違うものでしょう。

 

 そのような不思議な宗教観が、登場人物のクリストヴァンフェレイラ神父とセバスチャン・ロドリゴ神父の視点を通して上手く的確に語られていると思います。フェレイラ神父が日本で棄教したという知らせを受けた、主人公のセバスチャンとフランシス・ガルペ神父は、ことの詳細を知るために、キチジローという漁師の協力を得て、日本に侵入するのです。古代ローマの時代からそうですが、やはり新しい宗教の力というのは、時の権力者にとってほっておけるものではありません。

 

 日本では酷いキリシタン弾圧が行われていたのでした。もし見つかってしまえば、殺されてしまうので、セバスチャン神父とフランシス神父は日本のキリシタンたちの助けを借りて、かくまわれることになりますが、捕まってしまい……という物語です。とにかく、大名たちのキリシタンに対する拷問が惨いので、小説で読むよりも生々しいです(; ・`д・´) 人間って生き物は色々な拷問を考え付きますよね……。波の強い海岸で十字架に張りつけにして、死ぬまで待つ死刑方や、クビキリ~とか、頭に血が上って死なないように、首元に切り込みを入れて逆さ吊りにするとか、拷問が惨い……(゚∀゚)

 

 そのような拷問をされるのをわかっていても、キリシタンたちは信仰を棄てない……。ただ信仰を棄てて、踏み絵をして、イエスやマリアの絵に唾でも吐き捨てれば、惨い拷問をされることも、殺されることもないのです……。現代人の、それも無神論者の人からしたら、本当にわかるようでわからない心理ですよね(´-ω-`)

 

 バニラは無神論者ですから神だの信仰だのと声高に叫ぶ人がいると距離をとってしまいますが、でも神社とかお寺、あるいは教会などの神聖な場所では罰当たりなことをしてはいけないなぁ……と信仰心というのか? 何なのか自分でもわからない畏れのような気持ちは抱きます。その心理と命すらかける彼らの心理は違うものなのでしょうね(´・ω・`)

 

 そのような命を懸けて信仰を守るキリシタンとは対象に、キチジローという男はかなり異端者なのです。キチジローは踏み絵もするし、イエスやマリアに唾すら吐きますが、信仰心を最後まで持ち続けているのです。キチジローは不信仰な行いをしても、心では信仰を棄てていないのです。それを観てバニラは「信仰とは心なんだな~」と思ったんですよ。人間の心はクオリアで、同じ神を信仰しているつもりでも、同じ小説を読んでも感じ方は十人十色のように、百パーセント同じ神は信仰できないと思います。

 

 結局、神すら解釈の違いなのですよね。セバスチャン神父とフランシス神父は表上は信仰を棄てますが、心の中では死ぬまで信仰心を持ち続けていました。信仰のために命を賭した人たちを否定するつもりは毛頭ありませんが、信仰を棄てた人も否定はできません。キリシタンの人が読んだら、「そんなわけあるか( `ー´)ノ」と否定されてしまいそうですが、信仰心は個人の心の問題なのだと思うのです――。

映画 スリラー/ミステリー『ウインド・リバー』「撃つんかい撃てへんのかい撃つんかい撃てへんのかい!」

引用元:yahoo!映画-yahoo! JAPAN

 アメリカ中西部に位置する・ワイオミング州ウインド・リバーインディアン保留地という山岳地帯で先住民族ネイティブアメリカンの少女ナタリーが遺体で発見され、司法解剖でナタリーは数人の男たちからレイプされた後、雪山を10キロもの距離助けを求めて移動していたことがわかります(;´・ω・) ナタリーにいったい何があったのか? BIA(インディアン部族警察)であるベンはFBIに捜査の協力を頼みますが、やって来たのは新米女性捜査官のジェーン一人でした。

 

 そのあたりからでも先住民に対する差別意識がうかがえますね(;^ω^) 現在のアメリカでネイティブ・アメリカンたちが抱える問題も描かれていています。世界中で言えることですが、アメリカ、またはヨーロッパでは未だに白人至上主義思想が根強く、黒人・黄色人種先住民族などが不条理な差別を受けていますからね……(´-ω-`) 黒人や黄色人種では就けない職業があったり、公にはなりませんが不条理な差別があるのは良く知られた話です(´・ω・`)

 

 近年話題になった出来事を取り上げるなら、白人なら黒人や黄色人種を殺しても罪が軽減される、酷いときには罪にならないというのが大々的に露呈したニュースは記憶に新しいと思います……。殺されたのが白人の女性だったら、もう少しFBIも本腰を入れてくれたでしょうし……。下手に正義感振りかざすと、いじめ問題などと同じ理由で「出る杭は打たれる」わけで……なかなかこのような問題は難しいです……( ;∀;) 無力なバニラをお赦しください(ノД`)・゜・。

 

 そのような問題で、ほとんどの人が傍観者に徹するわけですが、ジェーンは人一倍正義感が強い新人でまだすり減っていないので、とにかく捜査に積極的なんですね(≧▽≦) こういう人がいるから、人間まだ捨てたもんじゃないって思えるのです(´艸`*)(誰目線(; ・`д・´))。

 

 ジェーンは黒人や白人、先住民関係なく捜査してくれます。ジェーンはナタリーの発見者であるハンターのコリーと捜査を開始するのです。まずは殺されたナタリーの両親に会って情報を聞き出し、その事件にナタリーの兄が係わっているかもしれないことを知ると、すぐさま捜索に移ります。ナタリーの兄を見つけましたがそのとき、銃撃戦になって、ジェーンは人を殺してしまうのですね……( ̄▽ ̄)

 

 その辺は本当に日本人と感覚が違いますよね(;^ω^) 日本の刑事ドラマとかだと、刑事が犯人に銃を構える場面はありますが、撃つぞ撃つぞと見せかけるだけで「撃つんか、撃たへんのか、撃つんか、撃たへんのか」とまるで吉本新喜劇の「乳首ドリルすな!」のネタのような場面が繰り広げられますが、アメリカは何のためらいも葛藤もなく平気で撃って射殺してしまうこともありますからね……(;´・ω・) よくアメリカでは犯人を撃ち殺してしまったことが問題にされますが、アメリカのドラマや映画を観ていても、「そりゃそうなるわ」と思ってしまいます……(~_~;) 

 

 だってためらいもなく撃つんだもん……。それを観るとアメリカってやっぱり怖いな……( ;´Д`)って思います……。もし、アメリカに旅行に行くことがあって、警察に銃を突きつけられるような事件に遭遇したら、抵抗しない方が身のためですよ……(冗談じゃなく(; ・`д・´))。

 

 最終的にナタリーをレイプした男たちとも銃撃戦になるのですが、男たちをみんな(だったと思いますが(。´・ω・)?)射殺してしまいますからね。あまりに一方的な射殺になっていて、悪いことをしている犯人たちではありますがちょっと同情してしまうというか……(;^ω^) 警察なら犯人を逮捕するという大義名分があったら、一方的な虐殺のような殺人も許されるのか? と思ってしまいました。

 

 罪は法廷で裁かれるというのが民主主義の考え方じゃないのか? と一個人の感覚として思います。まあ、恐らく平和な日本という国の価値観で物事を判断している、綺麗ごとなのは重々理解していますが、それでもアメリカの価値観を理解できないことはありますね(´-ω-`) この物語は実際にあった事件を映像化しているものなので、現在のアメリカを知る上で大変勉強になる作品でした('◇')ゞ