昔、日本で本当にあったキリシタン弾圧を描いた歴史超大作(≧▽≦) ニ、三年前かな? 読んだことあります、が時代背景とか宗教の知識とかが全然わかっていなくて、まったく描写を想像することができませんでしたが、映像で観るとよくわかりますね。言わずもがなかもしれませんが、この作品は遠藤周作という小説家の『沈黙』の映像化作品です。遠藤周作さんは日本人という存在を生涯にわたり研究し続けた方です。
日本の常識は世界の非常識などと言われますよね。日本に住んでいると気づきませんが、いや同調圧力・集団主義が強くて目立つことを避けがちなので、おかしいと思っても言い出せませんが、確かにちょっと異常とも思われることがありますよね( ̄▽ ̄) そして特に日本人の宗教観、信仰心とは世界から見ると異質だとよく聞きます。結婚式は教会で、新年の初詣は神社で、死んだらお寺で、そして海外の色々な文化を吸収して、独自の文化を生み出す。
一応日本の国教である仏教ですら原始仏教とはかなりかけ離れた大乗仏教を取り入れ、その大乗仏教ですら日本の神道の神々と神仏混交(習合)などをしてしまう。そのような日本を、本作では沼に例えられていました。日本にはどんな宗教も根ずくことがないのだと。根付くことはないとは思いませんが、欧米や西洋の人々が考える宗教観とは恐らく違うものでしょう。
そのような不思議な宗教観が、登場人物のクリストヴァン・フェレイラ神父とセバスチャン・ロドリゴ神父の視点を通して上手く的確に語られていると思います。フェレイラ神父が日本で棄教したという知らせを受けた、主人公のセバスチャンとフランシス・ガルペ神父は、ことの詳細を知るために、キチジローという漁師の協力を得て、日本に侵入するのです。古代ローマの時代からそうですが、やはり新しい宗教の力というのは、時の権力者にとってほっておけるものではありません。
日本では酷いキリシタン弾圧が行われていたのでした。もし見つかってしまえば、殺されてしまうので、セバスチャン神父とフランシス神父は日本のキリシタンたちの助けを借りて、かくまわれることになりますが、捕まってしまい……という物語です。とにかく、大名たちのキリシタンに対する拷問が惨いので、小説で読むよりも生々しいです(; ・`д・´) 人間って生き物は色々な拷問を考え付きますよね……。波の強い海岸で十字架に張りつけにして、死ぬまで待つ死刑方や、クビキリ~とか、頭に血が上って死なないように、首元に切り込みを入れて逆さ吊りにするとか、拷問が惨い……(゚∀゚)
そのような拷問をされるのをわかっていても、キリシタンたちは信仰を棄てない……。ただ信仰を棄てて、踏み絵をして、イエスやマリアの絵に唾でも吐き捨てれば、惨い拷問をされることも、殺されることもないのです……。現代人の、それも無神論者の人からしたら、本当にわかるようでわからない心理ですよね(´-ω-`)
バニラは無神論者ですから神だの信仰だのと声高に叫ぶ人がいると距離をとってしまいますが、でも神社とかお寺、あるいは教会などの神聖な場所では罰当たりなことをしてはいけないなぁ……と信仰心というのか? 何なのか自分でもわからない畏れのような気持ちは抱きます。その心理と命すらかける彼らの心理は違うものなのでしょうね(´・ω・`)
そのような命を懸けて信仰を守るキリシタンとは対象に、キチジローという男はかなり異端者なのです。キチジローは踏み絵もするし、イエスやマリアに唾すら吐きますが、信仰心を最後まで持ち続けているのです。キチジローは不信仰な行いをしても、心では信仰を棄てていないのです。それを観てバニラは「信仰とは心なんだな~」と思ったんですよ。人間の心はクオリアで、同じ神を信仰しているつもりでも、同じ小説を読んでも感じ方は十人十色のように、百パーセント同じ神は信仰できないと思います。
結局、神すら解釈の違いなのですよね。セバスチャン神父とフランシス神父は表上は信仰を棄てますが、心の中では死ぬまで信仰心を持ち続けていました。信仰のために命を賭した人たちを否定するつもりは毛頭ありませんが、信仰を棄てた人も否定はできません。キリシタンの人が読んだら、「そんなわけあるか( `ー´)ノ」と否定されてしまいそうですが、信仰心は個人の心の問題なのだと思うのです――。