駄菓子をテーマにした作品『だがしかし』のときもそうでしたが、コトヤマさんの作品は今までなかったアプローチで独特の設定と雰囲気があると思います( ̄▽ ̄) 登場人物たちの性格も今までのテンプレになかった新しい現代的なキャラだと言えるでしょう。
本作『よふかしのうた』の主人公夜守コウ(やもり こう)くんという中学2年生の男の子も、今までになった感じの主人公像だと思います。天然というか、つかみどころのない、ひょうひょうとしているようで物事を深く考えている。現代の男の子という印象です。
物語の登場人物って、わかりやすくキャラクター化されているのですよ( ̄▽ ̄) だから、違う作品なのに似たり寄ったりのキャラクターが多い(バニラの偏見です)。
だって、人間の性格や心理はとても複雑で、色々な顔を持っているのが人間ってもんですが、そんなもの物語で描こうと思ったら『罪と罰』とか『人間失格』などの重い純文学小説になってしまいますよね(;^ω^)
それらの純文学小説でも人間の内面を描き切ることができないのですから、エンタメ性を重視する漫画などで人間を描き切れるわけがないのです(´-ω-`) それに描こうとしても読者や視聴者は複雑な人間を理解できないので、わかりやすいテンプレ化された固有の性格で描かれることがほとんどなのです。
例えば、天然だったらフワフワした雰囲気をまとっていたり、ツンデレだったらツインテールで、気の強そうな吊目気味というビジュアルをしていたり、メガネかけていたら頭良さそう、あるいはツッコミ担当だったり、不良っぽい人が捨てられた犬・猫に寄り添ったり、少年漫画の主人公でよくある熱血、鈍感、おバカキャラだったり、物語の登場人物は人間が持つ性格の一面だけを切り取ったかのようにテンプレ化された人格で、そのテンプレをそれることはまずありません( ̄▽ ̄)
現実世界に少年漫画の登場人物のような性格を持った人は恐らくいないでしょ(。´・ω・)? もしいたらコントや漫才が成立します( ̄▽ ̄) だからこそフィクションであり、エンターテインメントとして成り立つわけです。
で、何が言いたいかって『よふかしのうた』に登場する夜守コウくんは、今までにあった物語の登場人物のテンプレのどれにも当てはまらない、不思議な個性を持っていると思いました(≧▽≦)
コウくんは色々な理由が重なって不登校になってしまい、それ以来不眠症になってしまいました。そして眠れない夜はじめて夜の町に外出したことをきっかけに、吸血鬼の七草ナズナに出会い、煩わしい人間を辞めて、自分も吸血鬼にしてもらうために奮闘するのですね(´▽`*)
今まであった吸血鬼とは一味違って、吸血鬼になるには、吸血鬼のことを好きにならないといけないというルールがつけられています。つまり恋愛感情を抱いていない相手の血を吸っても、その人物を吸血鬼の眷属にすることはできないのです(。´・ω・)?
そのことを教えてもらったコウくんはどうにかナズナちゃんを好きになろうとするのですが、コウくんは他者を好きになるということがわからずいままで悩んでいたんですね……。
自分以外の相手を好きになるとは? つまり愛するとは何なのか(。´・ω・)? コウくんは自問自答しているわけですよ(´-ω-`) 多くの創作作品で愛の力だ何だと、愛というものを使えば奇跡だって起こせたりしていますが、実際のところのその不思議な愛の力が具体的に説明されることはありません(;^ω^)
恋愛感情を科学的に説明するなら、愛というのは生物が子孫(遺伝子)を遺すために、利己的な遺伝子の働きによってプログラムされた機能とでもいうのでしょう。世界中には何十億という男女がいますから、その一人一人を吟味して相性を計っていたら子孫を残すことはできません。
だから、利己的な遺伝子が異性を認知すると、脳内でドーパミンを分泌させて判断能力を奪ってしまいます。そのことを証明する面白い実験があって、カップルに赤の他人の写真と恋人の写真を見せると、恋人の写真を見せたときだけ脳内麻薬であるドーパミンが分泌されるそうです。
恋は盲目というのは、科学的に説明説明できてしまうことだったのですね(´▽`*) つまり恋愛感情が冷めてしまうと、ドーパミンの分泌もなくなり冷静になってしまいます(~_~;)
だったら、愛や恋とは結局性欲に端を発するものなのでしょうか(。´・ω・)? 恋愛感情の正体は性欲というのは結構真理をついていると思いますが、人間には家族愛やきょうだい愛、師弟愛、友愛など色々な愛の形があるので、割り切れません……。
けど、家族愛やきょうだい愛、友愛なども愛情ホルモンとして知られるオキシトシンが脳内で分泌されることでコントロールされているらしいので、どこまでが愛なのかというのを計ることはできないでしょう。
なら、さらに愛を掘り下げると、愛とは差別になると思うのです(`・ω・´) この説はバニラが考えたものではなく幸村誠さんの『ヴィンランド・サガ』という漫画で神父がクヌート王子に説く愛の本質です。ちょっと長いですがその部分を引用させてもらいます。
クヌート「……愛とはなにかだと? ラグナルは私を愛していなかったというのか?」
神父「……はい……」
クヌート「……ならば問うのは私のほうだ。ラグナルに愛がないのなら、正しく愛を体現できる者はどこにいるのだ」
神父「そこに居ますよ、ホラ」
神父は死体を指さして続ける。
神父「彼は死んで、どんな生者よりも美しくなった。愛そのものといっていい。彼はもはや憎むことも殺すことも奪うこともしません。すばらしいと思いませんか? 彼はこのままここで打ち捨てられ、その肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう。風にはさらされるまま、雨には打たれるまま、それで一言半句の文句も言いません。死は人間を完成させるのです」
クヌート「……愛の本質が……死だというのか」
神父「はい」
クヌート「……ならば親が子を、夫婦が互いを、ラグナルが私を大切に思う気持ちは、一体なんだ?」
神父「差別です。王にへつらい、奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません。ラグナル殿にとって王子殿下は他の誰よりも大切な人だったのです。おそらく彼自身の命よりも……。彼はあなたひとりの安全のために、62人の村人を見殺しにした。差別です」
クヌート「……そうか。わかってきた……。まるで、霧が晴れていくようだ……。この雪が愛なのだな」
神父「……そうです」
クヌート「あの空が、あの太陽が、吹きゆく風が、木々が、山々が……。
……なのに……なんということだ……。世界が……神の御技がこんなにも美しいというのに……。人間の心には愛がないのか」
神父「……私達が……このような生き物になってしまったのは……遠い祖先が、神に背き罪を犯したせいだといわれています。私達は楽園から追放されたのです」
つまり、本当の愛の本質とは差別のない博愛であり、人間には本当の愛を体現することはできないのです。本当の愛を体現できるのは、普遍的自然の摂理であったり、自然環境などだけなのですね(´▽`)
まあ、反感を買ってしまいそうな説ですし、愛とは古今東西多くの人々や哲学者たちが考えて来た生物にとって普遍的テーマなのですから、そもそも正解なんてない相対的なものとなるので生きている限り考え続け、アップデートし続けなければならない問題です。
と、長くなってしまいましたが、何気ない日常の場面と、非日常の狭間の描き方が本当に巧いし、作画がとんでもなく綺麗だし、独特の雰囲気のある作品だと思います。登場人物画少ないのに、よく視聴者を飽きさせずに画面を持たせられるものだと、物語の可能性をまた一つ見せつけられました(≧▽≦)