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映画 ドラマ 『ハンナ・アーレント』「善とは、最大多数の最大良心。悪とは、最大多数の最大呵責」

引用元:Amazon

 凡庸な悪の提唱者として知られるハンナ・アーレントは、ユダヤ人大量虐殺の責任者アイヒマンの裁判を聴衆して、彼はユダヤ人に恨みを抱いていたのでもなければ、大量虐殺などを起こすような悪魔的な性質を備えている訳でもなく、思考を停止させてお役所仕事のように、善も悪もなく、ただ言われたことを実行しただけだというプロファイルリングをします。ハンナは自身の発見を『凡庸な悪』と命名し、世間に発表するのですが、そのことにより、多くの人々から酷いバッシングを受けてしまうのです。

 

 では、ハンナの発見とは、どのようなものだったのでしょうか。それは、全体主義による没個性化のことです(´-ω-`) どうしてアイヒマンのような凡庸な人間が、あんな残虐非道な行いができたのかは、この全体主義による没個性化で説明ができるのですね。人間は集団になればなるほど、没個性化といい、思考力が低下して、集団に身をゆだね責任の分散を無意識的に行ってしまうのです。いじめなどがそうですよね。職場でも、学校でも、いじめられている人がいるとします。その人と仲良くすると、自分も同じようにいじめられるかもしれないから、傍観者に徹するか、自分がいじめられないために同じようにいじめる側に転ずるか……( ;∀;)

 

 いじめを傍観していた人も同罪だというふうに言われますが、実際その立場に立ってみると、全体主義に徹して、そうせざるを得ないのが現実なんですよね……。この映画のハンナのように強い人なら、逆境に屈せず自分の信念を貫けるでしょうけれど、一般の殆どの人が、ハンナのように強くはなれません(´-ω-`) 自分の身を護るために、自分の思考を押し殺して、全体主義集団主義に従うしかないのです……。それが人間が進化の過程で身に付けた、生き残るための戦略なのだからどうすることもできません……。

 

 現代では凡庸な悪と呼ばれる、全体主義による没個性化の現象は、それなりに知られていることですが、昔は悪魔的な性質を有する人たちが、ユダヤ人大量虐殺などを行うのだと信じて疑いませんでしたから、ハンナへのバッシングは酷いものです。でも、そのようにハンナをバッシングしている人たちも、ハンナをバッシングすることで、集団主義による没個性化が発動しているので、自分で自分たちの凡庸な悪を証明しているのに、思考力が低下しているから相手の主張を考えることができないという皮肉です(´-ω-`)

 

 肝に銘じなければならないのは、誰でもヒトラーアイヒマンのように成りえる。「自分はならないならない(*´ω`*)」「いえ、なります。絶対(´・ω・`)」「Σ(゚Д゚)」ということです。誰でもヒトラーや、アイヒマンになるので、集団でいるときほど考えることを意識的にしなければなりません。けれど、アイヒマンも言っていましたが、国家全体がそのような流れに向いていると、一人や二人が没個性化しなくても、どうすることもできないので、自分の精神を守るために没個性化するしかないのですよね……( ;∀;)

 

 ハンナは膳や悪、正義ついて、死ぬ間際まで考え続けていたらしいです。では、バニラが思う善と悪、正義について少し記して終わりにしましょう(*'ω'*) まず、正義とは何かですが、正義とは最大多数の最大良心が正義なのだと、バニラは思います。どういうことなのか極端な例で申しますと、どうして人間は人を殺してはならないのでしょう? そう訊くと、罰を受けるからという答えが返って来る確率が高いですが、なら罰を受けなければ人を殺していいことになるのでしょうか? きっと、多くの人が罰を受けなくても、倫理・道徳的に人を殺してはならないと感じるはずです。

 

 道徳の問題などを考えると感じることですが、正義かそうでないかを決めているのは、人間の良心というセーフティー機能なのですね。そうなれば、個人差が生じるのは当然のことで、その基準を公平に保つためには、多数決原理のように、最大多数の思想の正当化が必要になるのです。その理論で言えば、良心の呵責を起こす物事が『悪』になります。つまり「正義とは、最大多数の最大良心」ということになるのです。そして、「悪とは、最大多数の最大良心の呵責」ということです。人を殺しても良心の呵責がない人たちが多ければ、人を殺すことは悪ではなくなるのです。

 

 法律で定められている刑罰なども、この最大多数の最大良心の呵責を基準に設けられたことなのだとバニラは考えます。難しくてごめんなさい……(。´・ω・)? 『正義』の対義語は『悪』ではなく、『正義』だというように、自分の信じる信念のために行動することが正義で、自分とは違う信念は『悪』になるのですよ。本来、善も悪も、正義と正義も世界には存在しなくて、人間の社会にだけ存在する虚構なのです。人間が考えだした、すべては虚構です。仏教ではこの世界の一切は「空である」という真理に2000年以上も前には到達しているのですが、人間が生活する過程の中では、その虚構は必要不可欠ですから、上手く付き合っていくしかないということでした(´・ω・`)