ゆる文

ゆる~くアニメだとか、映画の感想文

映画 アドベンチャー 『ユリシーズ(1954)』「武勇伝♪武勇伝♪ぶゆーでんでんででんでん♪」

引用元:Amazon

 ギリシャ神話で一二を争う人気エピソード『ユリシーズ』の1954年版映画です(≧▽≦) ユリシーズとは、ギリシャ神話の中のトロイア戦争で活躍した知将オデュッセイアトロイア戦争に勝利して、故郷に帰宅するまでの10年間が描かれます。故郷に妻と息子を置いて、10年にも及んだトロイア戦争に参戦しているので、家に帰るまでが遠足だとしたら、20年も家を留守にしていることになるんですね(≧▽≦) 

 

 戦争が終わったにも関わらず、一向に家に帰って来ないので、故郷で待つ妻のペーネロペーペネロペ)の元には、色々な男たちからの求婚に迫られているわけなのですよ。けれど、ペネロペは夫を信じ、20年間も待ち続けるのです。普通なら、トロイア戦争がメインの話しになると思いますが、世界中でトロイア戦争の物語より、この『オデュッセイア』の冒険活劇の方が人気があるのですからね。

 

 トロイア戦争を終えてからの方が、大変ってどういうこっちゃ(´・ω・`) まず、トロイア戦争を終えたユリシーズは、船に乗って故郷に帰る道中、食料を調達しようと、ある島に寄ることにしたのですが、そこからがユリシーズの苦難の始まりでした。その島には、一つ目の巨人キュクロプス族のポリュペーモスという人食い巨人がいて、ユリシーズは食べられそうになりますが、ヤマタノオロチ戦法で、お酒をいっぱい飲ませて、酔い潰れさせ、眠ってしまったところで先端を鋭くした木の柱で目を潰し、機転を利かせて島からの脱出に成功するのですが、調子に乗ったユリシーズは自分の名前を告げたことで、神の怒りを買ってしまうことになったのですね。

 

 ポリュペーモスの父親、オリュンポス12神にして、最高神ゼウスの兄である海神ポセイドンだったのですΣ(゚Д゚) 船に乗って航海しているのに、海の化身であるポセイドンを怒らせては、さあ大変。ユリシーズたちに、その後もいくつもの試練が降りかかるのでした。魔女キルケの島に漂流して、仲間を豚に変えられて、その後余りの居心地の良さに何年も滞在するわ、上半身が女性、下半身が鳥の怪物セイレーンの歌を聴いて、幻覚を見せられるわ、仲間と記憶を失い、独りで漂流しているところを王女様に助けられて、何かいい感じになっているところで、記憶を思い出し、やっと妻と息子が待つ故郷に帰ってくる事がでるのです。

 

 ですが、まだ武勇伝は終わりません。浮浪者の格好をして、妻の新しい婿選びの席に乱入して、神業披露した後、妻に求婚した男たちを息子のテレマコスと一緒に殺戮するという……Σ(゚Д゚) 神話って残酷過ぎる話がよく見受けられますが、求婚者たちを殺戮するって……ちょっとやり過ぎじゃありませんかユリシーズさん! って思いました。まあ、現代人の感覚で昔話を語っては駄目なのでしょうけど(;^ω^)

 

 いや~、すごい武勇伝です( ̄▽ ̄) 尺の都合上、取り上げられなかったエピソードもありますが、オデュッセイアの冒険が上手くまとまっていたと思います。浮浪者に変装していたユリシーズに妻が、「どうせ、女のところに寄り道しているのよ」みたいなことをいうシーンで、ユリシーズのきまり悪そうな顔がかわいかったです(*´▽`*) いつの時代も、男は妻に敵わないのですね(≧▽≦) 

 

PS ギリシャ神話の入門書をそれほど多く読んだわけではありませんが、『一冊でまるごとわかるギリシャ神話』、

引用元:Amazon

というだいわ文庫から出ている、吉田敦彦さんのこの本が今まで読んできた中で、一番わかりやすかったです。ゆるい挿絵がふんだんに入っているので、エッセイ漫画を読むみたいな感覚で、読めるので、ギリシャ神話を学びたい人におすすめです(^^ゞ

邦画 コメディー/ドラマ 『任侠学園』「「大切」という字は大きく切ると書きます。 真っ二つにされる覚悟があるからこそ、 その人のことを大切にできるんですね」

引用元:yahoo!映画-yahoo! JAPAN

『ごくせん』というドラマ化もされた大ヒット漫画がありましたね。極道の跡取り娘が学校の先生になり、型破りな教育で問題を抱えた生徒たちを導くお話ですよね(名前は知っているけど、見ていないので詳しくは知らないのです)。その他にも『金八先生』に始まり、伝説の暴走族グレート・ティーチャー・鬼塚が活躍する『GTO』なんかも大ヒットしています。そして、この『任侠学園』も極道が学校の問題を解決するという極道先生コメディー映画です(≧▽≦) 

 

 今の学校教育に足りないのは極道です(=゚ω゚)ノ(失言アッパー( `ー´)ノ)(ギャフン( ;´Д`)) じょ、冗談です……。マイケル・ジョーダンですよ~。だけど、学校に極道がいて、悪さをしたら極道にしばかれるとなったら、いじめなんかの問題が減るんじゃないかって、考えてみたり( ̄▽ ̄) ほら『クレヨンしんちゃん』のふたば幼稚園にも組長先生

引用元:クレヨンしんちゃん

がいますが、組長先生がいるおかげで、ふたば幼稚園の平和が保たれているところが無きにしも非ずじゃないですか~(組長じゃなくて、園長です(≧◇≦))。だから、マイケル・ジョーダンですって(≧▽≦) だけど、本当にちょっと型破りで生徒のことを助けてくれる先生がいれば、いじめの問題、家庭の問題とか解決してくれるんじゃないかって、思うこともあるのは否定できませんね~(´-ω-`)

 

 関係ないかもしれない話ですが『金八先生』に始まり『ごくせん』に『GTO』が流行っていた当時、先生になる人たちが増えたんですって。当然、熱血先生に憧れて先生を志した人たちですから、熱血に生徒を指導します。けれど、以外かも知れませんが、学校って熱血教師を求めていないんですよ。先生に求めているのは、感情に流されず、生徒に対しても平等に振舞える、言ってしまえば機械のような先生なのだとか。それに、教育の現場では熱意だけではどうすることもできない不条理なことが沢山あるから、熱血教師は続かないらしいです(;一_一) 

 

 バニラの親戚にも小学校教師がいますが、その人の話では、家庭問題や、いじめ、色々な人間関係とか、詳しくは言えませんが、先生って想像の十倍くらい大変だと思って間違いないですよ。熱意だけでは、どうすることもできない現実があるのですね~……( ;∀;) いや~、何とも世知辛い。で、熱血教師を一番倦厭しているのは、もし、熱血になったら人間なんですから、生徒に対してのひいきが出てしまうことらしですね。先生に求められるのは、どんな生徒にも平等に対応するというプロフェッショナルです。『ごくせん』や『金八先生』特に『GTO』ですが、『GTO』の鬼塚は生徒に体罰を平気で与えているので、夢物語なんですね~(´-ω-`)

 

 この『任侠学園』も夢物語ではありますが、日頃教育現場で感じる世間の不満を、極道が痛快に解決してくれるので、エンターテインメントとしては、とても面白く観れましたよ(≧▽≦) 阿岐本組という昔気質なヤクザの組長は社会奉仕に目がなくて、経営不振の高校を再建させるために、組の若いもんたちを学校に送り込むのです。

 

 一見、何の問題もないように見える学校ですが、窓ガラス割り事件が多発したり、ちょっと問題を抱えた学生たちがいたりと、問題なんてどんな名門高だろうと出てくるのです(´・ω・`) それが表面化しているか、していないかの違いでしかありません。そんな、問題を抱えた生徒たちを、極道たちは救い出すことができるのか! 特に、ネット用語に苦戦する極道たちのボケは吹き出してしまいました( *´艸`) そんな、生徒たちを極道先生が極道なりの解決策で解決します。

 

 なにせ極道ですから、くぐって来た修羅場の数が違うので、やることなすこと説得力があります( ̄▽ ̄) 金八先生の名言を調べていたらこんな言葉がありました。

『「大切」という字は大きく切ると書きます。真っ二つにされる覚悟があるからこそ、その人のことを大切にできるんですね』

極道先生はいついかなる時も、真っ二つにされる覚悟があるので、人のことを大切にできるのです('◇')ゞ

映画 SF/スリラー 『ライフ』「\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!」

引用元:ソニー・ピクチャーズ

 宇宙的恐怖! 閉ざされた国際宇宙ステーションの中で、火星から採取して来た生命体の研究を行っていた宇宙飛行士6人は、次々と宇宙生物に襲われて……。果たして、宇宙飛行士6人の運命やいかに(≧◇≦) いや~、『エイリアン』とか、こういう宇宙人に襲われるパニック映画って似通いますが、やっぱり面白いですよね~(≧▽≦) 宇宙生物も小っちゃいときはとても可愛かったんですよ……。流氷の天使と呼ばれるクリオネみたいでね。だけどクリオネって補色シーンが寄生獣のパラサイトみたいなんですよ( ̄▽ ̄) この宇宙生物のモデルって、クリオネなのかな? ってくらい似ている気がします。

 

 とにかく成長スピードが速くて、あっという間に巨大になって、わずかな通気口からでも、脱出してしまうシーンは『ジョジョの奇妙な冒険 戦闘潮流』に登場した柱の男のサンタナ

引用元:ジョジョの奇妙な冒険 戦闘潮流

 

彷彿とさせられますね~( ̄▽ ̄) エイリアンがサンタナだと考えると、確かにヤバさを実感できます。しかも人の体の中に入って、殺すこともできるのです。体の中に入っていくシーンは、結構グロテスクです( ;∀;) 映画が始まって序盤のころから怖くて、SAN値がピンチ状態でした……。SAN値ピンチSAN値ピンチSAN値ピンチ! だけど、そりゃあね、エイリアンだって勝手に起こされて怒りたいですよね~、とエイリアン側にも同情してしまうバニラがいるのですが(;一_一)

 

 人間がほっといてあげれば、エイリアンだって人間を襲ったりしなかったでしょうし……。人類や世界を滅ぼすのは、人間の飽くなき好奇心なんだな~って思いますね。「好奇心猫をも殺す」ですね( ̄▽ ̄) 出演者も豪華で、日本の真田広之さんも活躍しますよ~。この映画のラストは必見です(≧▽≦)

 

 

映画 ドラマ 『ハンナ・アーレント』「善とは、最大多数の最大良心。悪とは、最大多数の最大呵責」

引用元:Amazon

 凡庸な悪の提唱者として知られるハンナ・アーレントは、ユダヤ人大量虐殺の責任者アイヒマンの裁判を聴衆して、彼はユダヤ人に恨みを抱いていたのでもなければ、大量虐殺などを起こすような悪魔的な性質を備えている訳でもなく、思考を停止させてお役所仕事のように、善も悪もなく、ただ言われたことを実行しただけだというプロファイルリングをします。ハンナは自身の発見を『凡庸な悪』と命名し、世間に発表するのですが、そのことにより、多くの人々から酷いバッシングを受けてしまうのです。

 

 では、ハンナの発見とは、どのようなものだったのでしょうか。それは、全体主義による没個性化のことです(´-ω-`) どうしてアイヒマンのような凡庸な人間が、あんな残虐非道な行いができたのかは、この全体主義による没個性化で説明ができるのですね。人間は集団になればなるほど、没個性化といい、思考力が低下して、集団に身をゆだね責任の分散を無意識的に行ってしまうのです。いじめなどがそうですよね。職場でも、学校でも、いじめられている人がいるとします。その人と仲良くすると、自分も同じようにいじめられるかもしれないから、傍観者に徹するか、自分がいじめられないために同じようにいじめる側に転ずるか……( ;∀;)

 

 いじめを傍観していた人も同罪だというふうに言われますが、実際その立場に立ってみると、全体主義に徹して、そうせざるを得ないのが現実なんですよね……。この映画のハンナのように強い人なら、逆境に屈せず自分の信念を貫けるでしょうけれど、一般の殆どの人が、ハンナのように強くはなれません(´-ω-`) 自分の身を護るために、自分の思考を押し殺して、全体主義集団主義に従うしかないのです……。それが人間が進化の過程で身に付けた、生き残るための戦略なのだからどうすることもできません……。

 

 現代では凡庸な悪と呼ばれる、全体主義による没個性化の現象は、それなりに知られていることですが、昔は悪魔的な性質を有する人たちが、ユダヤ人大量虐殺などを行うのだと信じて疑いませんでしたから、ハンナへのバッシングは酷いものです。でも、そのようにハンナをバッシングしている人たちも、ハンナをバッシングすることで、集団主義による没個性化が発動しているので、自分で自分たちの凡庸な悪を証明しているのに、思考力が低下しているから相手の主張を考えることができないという皮肉です(´-ω-`)

 

 肝に銘じなければならないのは、誰でもヒトラーアイヒマンのように成りえる。「自分はならないならない(*´ω`*)」「いえ、なります。絶対(´・ω・`)」「Σ(゚Д゚)」ということです。誰でもヒトラーや、アイヒマンになるので、集団でいるときほど考えることを意識的にしなければなりません。けれど、アイヒマンも言っていましたが、国家全体がそのような流れに向いていると、一人や二人が没個性化しなくても、どうすることもできないので、自分の精神を守るために没個性化するしかないのですよね……( ;∀;)

 

 ハンナは膳や悪、正義ついて、死ぬ間際まで考え続けていたらしいです。では、バニラが思う善と悪、正義について少し記して終わりにしましょう(*'ω'*) まず、正義とは何かですが、正義とは最大多数の最大良心が正義なのだと、バニラは思います。どういうことなのか極端な例で申しますと、どうして人間は人を殺してはならないのでしょう? そう訊くと、罰を受けるからという答えが返って来る確率が高いですが、なら罰を受けなければ人を殺していいことになるのでしょうか? きっと、多くの人が罰を受けなくても、倫理・道徳的に人を殺してはならないと感じるはずです。

 

 道徳の問題などを考えると感じることですが、正義かそうでないかを決めているのは、人間の良心というセーフティー機能なのですね。そうなれば、個人差が生じるのは当然のことで、その基準を公平に保つためには、多数決原理のように、最大多数の思想の正当化が必要になるのです。その理論で言えば、良心の呵責を起こす物事が『悪』になります。つまり「正義とは、最大多数の最大良心」ということになるのです。そして、「悪とは、最大多数の最大良心の呵責」ということです。人を殺しても良心の呵責がない人たちが多ければ、人を殺すことは悪ではなくなるのです。

 

 法律で定められている刑罰なども、この最大多数の最大良心の呵責を基準に設けられたことなのだとバニラは考えます。難しくてごめんなさい……(。´・ω・)? 『正義』の対義語は『悪』ではなく、『正義』だというように、自分の信じる信念のために行動することが正義で、自分とは違う信念は『悪』になるのですよ。本来、善も悪も、正義と正義も世界には存在しなくて、人間の社会にだけ存在する虚構なのです。人間が考えだした、すべては虚構です。仏教ではこの世界の一切は「空である」という真理に2000年以上も前には到達しているのですが、人間が生活する過程の中では、その虚構は必要不可欠ですから、上手く付き合っていくしかないということでした(´・ω・`)

映画 ミュージカル/ドラマ 『エディット・ピアフ 愛の讃歌』「私は何ひとつ 後悔していない」

引用元:Amazon

 ピアフの名前は、大竹しのぶの舞台があるとかで聞いたことありましたが、今回初めてエディット・ピアフの映画を観ました( ;∀;) いや~、壮絶な人生です……。本名はエディット・ジョヴァンナ・ガションというらしく、ピアフというのは、パリジャンの俗語で雀という意味らしいですね。美空ひばりとか、歌姫には小鳥の名前を付けたくなるのでしょうか? いくつもの伝記が書かれているらしいですが、ピアフの人生は結構、謎に満ちたものらしく、母親が路上歌手で、現代でいうところのネグレクトを受けていたピアフは、売春宿で育ち、自身も母親と同じように路上歌手として何とか生計を立てているとき、16歳のとき、御用聞きの少年と恋に落ちて、女の子を産んだそうです。

 

 生まれた子供にマルセルと名付けますが、二年後に小児性髄膜炎で亡くなってしまったらしいですね……。それからも、めげずに歌い続けた結果、スカウトされて、伝説的な歌手となります。幼少期からして、壮絶な人生です(;一_一) 売春宿で育ったため、娼婦たちの壮絶な人生を色々見聞きしているでしょうし、両親の愛をもらえなかったし……、もうね……ほんと、苦労しています……( ;∀;) 念願の歌手になれて、これからは幸せになっていくだろうと思った矢先、第二次世界大戦に巻き込まれるわ、プロボクサーで最愛の人マルセル・セルダンが飛行機事故で亡くなってしまうわ、その後ピアフも自動車事故に遭い、痛みを和らげるために始めたモルヒネ中毒になって、後遺症や禁断症状に苦しむわ、さらに追い打ちをかけるように、47歳という若さで癌になり、壮絶な生涯に幕を下ろすことになるのです……(T_T)

 

 本当に壮絶な人生です。人生、不幸なことばかり続かないと言いますが、人にもよるんですよね……(-_-;) 確かに不幸なことばかり続かないかも知れませんが、人によって不幸10の人と不幸5の人、幸運10の人と幸運5の人みたいに、上限があるように思われます。不幸な星の下に生まれてしまった人も間違いなくいて、そればかりは運なので……力があるなら自分で運命を切り開けますが、力がなければ残酷ですが受け入れるしかないのでしょうね……( ;∀;)

 

 だから、ピアフは歌を歌うことを心の支えにしていたのでしょうね。ピアフの歌には、自分の人生をすべて表現しようとする、力強さが感じられます。小説家にしろ、漫画かにしろ、画家にしろ、そういう表現者と呼ばれる人種の人たちは、自分の中にわだかまる闇を表現せずにはいられないのです。バニラも、バニラの内側に封印された暗黒面の暴走を、抑えるのに日々苦労しています(=゚ω゚)ノ(厨二病(。´・ω・)?)。

 

 そんな、壮絶な人生を送ったピアフですが、彼女は人生を悔いていなかったのだと、映画を観て感じました。映画の最後、晩年のピアフが夕暮れの砂浜に座って一人海を眺めているシーンから、過去回想に入って『水に流して』という歌が歌われるのです。その歌の歌詞にピアフが自身の生涯を重ねて歌っているようで、泣いてしまいました(T_T)

いえ 後悔してない

私は何ひとつ 後悔してない

私に起きた 良いことも

悪いことも

私には同じこと

いえ 後悔してない

私は何ひとつ 後悔してない

代償を払って 過去は清算した

もう忘れ去ったわ

私には過去なんて どうでもいいこと

いろいろな思い出

火をつけて燃やした

悲しみも 喜びも

今はもう必要ない

過去の恋は清算した

震える想いと共に

永遠に追い払った

またゼロからやり直そう

いえ 後悔してない

私は何ひとつ 後悔してない

私に起きた 良いことも

悪いことも

私には同じこと

いえ 後悔してないわ

私は何ひとつ 後悔してない

私の人生

私の喜びはー

今日から始まる

あなたと共に 始まるのよ

 で、終わるのです。どうです、この歌詞の説得力(T_T) ピアフは人生に何ひとつ、後悔していなかったのです。ピアフの人生には、一片の悔い無しです(≧◇≦) 人生いろいろ大変なことの方が多いですが、最期人生を終えるときになったら、どんな人生だろうと、肯定できない人生はないと思うのですよ。綺麗ごとに聞こえるかもしれませんが、よく考えてみてください。最期、人生を終えるときって、仏のような優しい気持ちになれるように思うのです。ピアフも、最期人生を回想して、そんな気持ちになっていたのかなと思います(T_T) 本当に良い映画です('◇')ゞ

アニメ SF/ミリタリー/アクション 『86ーエイティシックスー』『少女は“涙”と共に。少年は“死”と共に』

f:id:WhiteVanilla:20220402215833p:plain

引用元:TVアニメ「86ーエイティシックスー」公式サイト

 近年まれにみる重厚なアニメでした(*´▽`*) ストーリーも終始シリアスで、テーマも重いですが、その分感動が大きいです。近年はライトなアニメが多い傾向があるので、このような重厚なアニメをもう少し増やして欲しいですね~。バニラ、こんなふざけてますが結構、重厚な話好きなんですよ('◇')ゞ だけどヘビーなアニメはなかなか視聴をためらってしまう人も多いので、利益を考えたら制作側も慎重になりますよね(-_-;)

 

 ショート動画が流行っているのと同じ理由で、ながら見しながらでも見られる作品が好まれる傾向が高いのでしょうね(-_-;) だけど、それも人間の本能で仕方ないと言えるのですよ。狩猟採集時代では、いついかなるとき命の危機に脅かされるかわからなかったので、常に色々なもの事に注意を向ける必要があって、つまりです、ながら見すれば、それだけ生き延びる確率が上がり、脳の報酬系からドーパミンという報酬をもらえるようにプログラムミングされているのですね。だから、一つのことに集中するのに、良くも悪くも、人間の脳は適していないのですよ(´-ω-`) 

 

 だから、集中して観ないといけない、重厚で複雑な作品は倦厭されてしまいます……。だけど、何もライトなアニメが駄目だと言っているのではありませんよ。バランスが大切なのです。ライトなアニメと、ちょっとストーリーに重きを置いたアニメのバランスがですね。そのバランスの観点から行ってもこの『86ーエイティシックスー』は名作の部類に入ると思います。

 

星歴2148年。サンマグノリア共和国は隣国ギアーデ帝国が投入した完全自律型無人兵器「レギオン」の侵攻に対し、同様の無人兵器「ジャガーノート」を投入。流血無き戦場を作り上げる事で脅威を退けていた。しかし、その実態は多数派民族である白系種以外を人間と見做さない狂気の差別思想から生み出された「有人搭乗式無人機」であり、搭乗させられた少数派民族は共和国85行政区の外へ追いやられた人型の家畜、「エイティシックス」と蔑まれながら絶死の戦場を戦い続けていた。そんな中、白系種でありながら軍内で差別政策撤廃の活動を行う士官ヴラディレーナ・ミリーゼは、管制担当者に多数の退役者や自殺者を出し「死神」と呼ばれるエイティシックスが居る部隊の管制を任され、自国が目を背け続けていたレギオンの真実を知る事になる。                    

                              (wikipedia 引用)

 

 サンマグロニア共和国の人々のモデルは白人で、そんなサンマグロニアの人々にエイティシックスと呼ばれる黄色人種が蔑まれているという、なんともヘビーな設定です(´-ω-`) まあ実際、現代でも肌の色による差別は無くなっていないので、リアルっちゃあリアルですね(-_-;) そんなエイティシックスである主人公、シンという少年はレギオンという殺戮兵器の進行を防いでいるのです。

 

 当然戦争ですから、エイティシックスの仲間たちは次々に死んで逝き、シンは仲間の死を背負って行くのですね。そんなある日、サンマグロニアからヴラディレーナ・ミリーゼ(通称レーナ)が、シンたちを遠隔で援護することになるのです。レーナは当初聞いていた話とエイティシックスたちの現状が違うことに強いショックを受けるのです(´・ω・`)

 

 現実世界でもありますよね……。比較的平和な日本に住んでいると、世界の国々で起こっている悲惨な現状なんて知ることはできません。毎日平気な顔をして幸福を享受しています。同時に、世界では今この感想を書いているときも人々は苦しんでいる……。何もしてあげられなくてごめんなさい……( ;∀;) と本当に申し訳なく思いますが、一般市民ができることなんて知れていて、本当に歯がゆいです( ;´Д`) バニラには祈ることしかできないのです……。神様の馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁッ(≧◇≦)

 

 そんなエイティシックスの悲惨な現状を知ったレーナは、どうにか彼らを助け出そうとするのです。だけど、どれだけ頑張ってもシンたちを助ける方法はないのです。エイティシックスは人間として観られていないので、死ぬまで戦う運命を背負わされているわけで……( ;∀;) この作品は二部構成になっていて、第一部のラストだけでも感動は凄いものでした。たった12~3話でこんな感動を視聴者に与えられる何て……;つД`)

 

 もうこれで最終回でも文句ないできですが、第二部からの話しがまた進撃の巨人のように壮大になってきて、ラストの感動はハンカチなしでは観られませ;つД`) こういう戦争作品をすると、ある一部の人は戦争の美化という意見がありますね。確かに戦争を美化している感は否めませんが、大切なのはフィクションと現実をごっちゃにしないように心がけることしかないのですよね。

 

 もし創作作品で戦争しちゃ駄目というなら、サスペンスやミステリなどで起こる殺人だっていけないことですし、少年漫画などでも主人公たちが平気で人を切ったり、殺したりしていますが、極論かもしれませんが、それらも禁止させなければなりません。当然、戦争は何があろうと非難せねばならないことですが、大切なのはフィクションと現実を一緒にしないことなのですね――('◇')ゞ

映画 ホラー/ロマンス 『ぼくのエリ 200歳の少女』「村は死によって包囲されている」

f:id:WhiteVanilla:20220224234543p:plain

引用元:Amazon

 何て美しい物語なんだっ(≧▽≦)北欧の美しい景色と、雪に閉ざされ鬱屈とした雰囲気、病的なまでに美しい狂気の関係性。こういう雰囲気の映画、すっきゃねん(≧▽≦) 邦題に200歳と表記されている通り、そのエリという子は人間ではなくヴァンパイアなんですよ。つまり、ヴァンパイア物語です。ヴァンパイアであるエリは人の血を吸わなければ生きていけません、だから各地を定期的に渡り歩き比較的ひっそりと生きているのです。そんな最中に、12歳の少年オスカーとエリは知り合うのです。

 

 オスカーは学校でいじめられていて、母子家庭という事情から家庭でも孤独を抱えて生きていました。そんな孤独なエリとオスカーが巡り合ったのは必然的なことだったのでしょう。二人の家は隣同士で、壁を叩いてモールス信号で得やり取りをするという関係になります。壁越しにモールス信号でやり取りをするって、なんてロマンティックなんだっ! 心に響く物語を見たり、読んだりした後って、その心に響いたシーンをいつまでも憶えているじゃないですか。バニラは、この二人の壁モールス信号を克明に憶えています(≧▽≦) ツートンツートンツーツーツートン(。´・ω・)? 絵になり過ぎです。

 

 エリと知り合ったことで、オスカーは精神的に強くなり、体を鍛えてとうとういじめっ子たちにやり返せるようになったのでした。友情、努力、勝利の王道ではありますが、この作品の雰囲気は熱血というより、終始冷かです。そんなこんなで、二人は少しずつ心の距離を縮めていきますが、ヴァンパイアであるエリは血を吸わなければ生きていけないので、今までエリの父親だという男性がエリのために人を殺して血を集めて来ていたのですが、運悪くというべきか、運が良かったというべきか、犯行に失敗してしまうのです。

 

 このままではエリにまで危害が及ぶと考えた男性は、硫酸を自らかぶり身元をわからくしました。そのまま病院に運ばれるのですが、男性は病院を抜け出して最期エリの前で意味深になくなります(´・ω・`) そこから、エリの生活は狂い始め、とうとうストックホルム郊外の町から立ち去ることになるのです。それに並行して、オスカーにやられたいじめっ子グループがオスカーに仕返しするためにプールにやってきます。何と、オスカーを事故に見せかけてプールに沈めて本当に殺そうとするという殺人未遂を起こしているとき、エリがやって来ていじめっ子グループたちを皆殺しにするという戦慄の一幕がありましたΣ(・ω・ノ)ノ!

 

 いよいよ物語は終幕に差し掛かり、最後衝撃的な展開になるのですが、オスカーも立ち去るエリについて行くところで物語は終わるのでした。つまり、オスカーはエリに付き添っていた男性と同じように、エリのために人を殺して、エリのために食料を集めることになるのでしょうし……二人のこれから先を考えると破滅しかありません……( ;∀;)

 

 終始鬱屈として残酷なグロいシーンもありますが、残酷と美しさとは紙一重なのですよ。苦しみが多いほど感謝の気持ちが湧き上がるように、残酷であればあるほど世界の美しさは顔を覗かせます。末期の眼に映る世界は美しいのです( ;∀;) これを観ていて、小野不由美さんの『屍鬼』という吸血鬼小説があるのですが、その『屍鬼』にめっちゃ似ていると思いました。屍鬼の最後もエリのような吸血鬼と、オスカーのような男が……(´・ω・`)

 

PS このような邦題を見るたびに思うのですが、原題の改変が過ぎるものや、ストーリーのことを考えていない邦題がありますよね。この映画の邦題も正にそれです。200歳の少女という副題を付けなくても、『ぼくのエリ』だけで良かったと思うのでした(´-ω-`)